グレロー タンポポの詩 グレロー便り

小説「タンポポの詩」の連載を開始します。作者の小黒昌一先生は、早稲田大学、文学部教授(英文学)。今年、七十歳になられます。九九年七月から二年半にわたって『早稲田文学』誌上に「古玩奇行 春秋」を連載されるなど、創作もこなされています(作品社より『尚古堂春秋』と改題して単行本化されています)。

そのほか郷里の『新潟日報』連載のエッセーを中心にした随筆集『むべの碁敵』があります。先日急逝された平岡篤頼文学部名誉教授は文学上の師であり僚友であったそうです。

「タンポポの詩」は本紙のための書き下ろしです。第二次大戦をはさんで、様々な不条理と苦悩を体験しつつ、あるべき人生をつつましくまっすぐに生きた「カトリ君」の風のような人生が簡潔で、飄々として、滋味溢れる、完成度の高い文体で綴られます。

なにかに急き立てられ、駆り立てられているような違和感を心のどこかで感じつつも、行聞を楽しむことにもなかなか馴れる余裕もない私たち、二十一世紀の学生にとって、早稲田の先輩からの最高のプレゼントとなるでしよう。

            タンボボの詩

立ち込める靄。暁の兆しもない夜明けの闇。
と、浅草は新谷町の一角にある二階家の裏窓辺りの闇から小さな影が抜けでた・・・・・。猿か?影は、両足でトタン屋根を軽く蹴ったかと思ったら、表通りの電信柱にピョイと跳ぴつき、スルスルッとすべって大地に下り立ち、首をすくめ腰をかがめ、辺りを見回した。そしてそのままの姿勢で走りだした。速い、速い。風を巻いて走るどころではない、疾風そのものだ。

 浅草から上野までアッという間の章駄天ひとっ走りで、猿は上野駅にいた。暗い構内におかれた長椅子の下に身をひそめ、息をころし、始発列車の改札を待っていた。

 高等小学校を卒業して十五才になった「猿」すなわち少年カトリ栄一が、生まれ故郷の越後をあとにして、はるばる首都は浅草の菓子屋に奉公したのは、洋菓子つくりを勉強したいと思ったからであった。本当はサーカスに入りたかったのだが、長男でもあり、それはかなわなかった。

ところが、奉公先のカラマツ屋での毎日は飴つくりで、洋菓子つくりなんぞとんでもない。その気配もない。飴が中心の菓子屋だから飴をつくるのは当たり前なのだが、どうにも我慢のならない栄一は、半年が過ぎようとする頃、「これは逃げ出すしかない」との結論に達し、かくして未明のエクソダスとなったのである。

 列車を引っ張る先頭の機関車にできるだけ近い三等車両に乗り込んだ栄一少年は座席に腰を下ろさず、座席の前の空闇にしゃがみ、窓から見えないように頭を低くし、気を張り神経を尖らせていた。やがて、白い蒸気を吹きだしながら「ブゥオーツ、ピュオーツ」と汽笛を鳴らしてガタンと発進した汽車の、ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトンというその単調な響きがなにやら手守歌の音色に変わり、少年の緊張はほぐれ、いつの間にか深い眠りの世界に引き込まれていった。

砂丘があった。
砂丘の彼力に日本海が見えた。その日本海に軍艦がいた。
 日和山浜沖合に錨を下ろしたのは帝国海軍第一艦隊の軍艦だというが、巡洋艦だろうかそれとも駆逐艦だろうか。遼く佐渡島を借景に、その雄姿を誇っている。

 三日間の碇泊中は艦内参観が許司されるという町内会の案内があった。信濃川の波止場からポンポン蒸気船が出ていて、運賃は往復五銭だという。

 その五銭がないので、栄一は軍艦めがけて泳ぐことにした。沖台目標物に到達するには目標めがけて直進するのではなく、目標物と浜辺の最短距離を結ぶ直線のかなり左側を平行に、つまり沖合右前方こ目標物をおいて先に結んだ直線の平行線を真っ直ぐ進むと、うまく黒潮に乗って流され、目的の地点に到達するのであるが、栄一は「ここは一番何としても」と覚悟を決め、赤揮を締め直し、浜辺から軍艦に向かって真っ直ぐに、潮の流れに逆らいながら泳いだので、舷側まで二時間かかった。

 甲板から艦長の声があった。
----少年よ、よく来た。ずっと見ていたヨ。見事だ。歓迎したいのは山々だが、裸では乗艦できない規則だ。明日、迎えに行くから着衣をつけて波止場で待つように。
ーはい、分かりました。

と、立ち泳ぎしながら艦橋の辺りを見上げて答えはしたがこのまま戻るのも癪にさわる、せっかく来たのだから艦を一周してやろうと泳ぎ始めた。艦長はカッターボートを下ろして泳者を見守りながら漕がせた。一時間掛かって一回りした栄一は、それから浜辺に向かって泳ぎだした。波打ち際に着くまでカッターは付き従うように泳者の後を漕いだ。
 翌朝、言われた時間に波止場に立っていると、沖合に錨を下ろしている軍艦からカッターボートが下ろされ、白絣の着物に三尺を締めて待つ栄一少年の方に漕ぎ来たった。
 艦長に迎えられて乗艦し、艦内を見学し、カレーライスをご馳走になってから、再び波止場までカッターで送ってもらった。小学五年生の少年にとっては夢のような一日であった。(続く)


日頃、栄一は水泳に力をいれていた。遠泳があれば必ず参加した。遠泳というのは、海の沖台二百メートルから三百メートルを泳ぎ、泳法は横泳ぎか平泳ぎで、長船が付き添い、二時間に一.回飴玉を一つ、四時間たつと握りめしが支給されるが、泳者は舟につかまらずに立ち泳ぎをしながらこれを食べる。

日本海は寄居浜から関屋分水まで泳いでユーターンして灯台下に行き、そこからまた寄居浜まで引き返す。小学生で六時聞遠泳を達成する者はまずいなかった。栄一少年はその六時間を小学三年生のときに泳いだ。その後も合わせて小学生で泳いだのは全市で二人しかいなかった。後年、四十歳になろうとする頃に古式泳法は神伝流自然派の第五世師範となる下地ははやくから備わっていたわけだ。

 勉強は得意ではなかったが身体を動かすことは好きで、身の軽さは群を抜いていた。木登りでも竹登りでも塀の上を歩くのも学校一。大きくなったらサーカスに入りたいと考えていたというのもうなずける。「悪さ」もしたが盗みや意地悪はしなかった。小柄な少隼は反骨というのか、理不尽な相手には一歩も譲らぬ根性の持ち主だった。

あるとき、友人「タンタン」が不良どもに連れ去られるという事件の起きたことがあった。学校から帰ると浜にいって泳ぐというのが子供たちの日課であって、その日は栄一よりも一足早くタンタンは浜辺に着いたのだが、たまたま小さな子供たちの連れてきていた子犬が、渡打ち際で、よその.「獰猛な犬」にやられているのを目にした。子犬を助けようとして猛犬に砂団子を投げつけ追い払ったところ、なんとまあ、そのイジメ犬はその辺りの「やくざ」タツマキ組の飼い犬で、不良どもは小学生の「タンタン」に襲いかかり、殴り倒し、引きずり、そしてそのまま拉致してしまったのである。

 浜辺に釆て事件を知った栄一はすぐさま家に取って返した。親友「夕あるとき、友人「タンタン」が不良どもに連れ去られるという事件の起きたことがあった。学校から帰ると浜にいって泳ぐというのが子供たちの日課であって、その日は栄一よりも一足早くタンタンは浜辺に着いたのだが、たまたま小さな子供たちの連れてきていた子犬が、渡打ち際で、よその.「獰猛な犬」にやられているのを目にした。子犬を助けようとして猛犬に砂団子を投げつけ追い払ったところ、なんとまあ、そのイジメ犬はその辺りの「やくざ」タツマキ組の飼い犬で、不良どもは小学生の「タンタン」に襲いかかり、殴り倒し、引きずり、そしてそのまま拉致してしまったのである。
 浜辺に釆て事件を知った栄一はすぐさま家に取って返した。親友「夕ンタン」を助けだすための準備と「クマ」の力を借りるためだった。その頃としては珍しく、栄一の家は犬を飼っていた。その犬の名が「クマ」だ。がっしりとした全身を紫がかった薄墨色の剛毛で覆われているその犬はいつも玄関先にいて、太い前脚に顎をのせて寝そべっている。朝夕の散歩のとき以外は鎖でつながれることはない。訪れる者があっても吠えたりしない。寝たままの姿勢で片目をちょいと開けて挨拶するだけ。ただし、うさん臭い者が近寄ると、片目で睨んで「うーっ」と低く喰り、按近者を退散させることもある。

「タンタン」を拉致したのが不良どもと猛犬だというので、栄一も「クマ」の力を借りることにしたのだ。
浴衣に着替え、ちょっと早いが盆下駄を下ろして履き、鎖を付けたクマに引かれながらタツマキ組の親分の家にやってきた。そして、入り口で大音声で宣うたものだ。

ーおーッ、俺はカトリ栄一だ。友だちのタンタンを返せッ!お前ら、卑怯だぞッ、三人もかかって小学生一人をかっさらうなんてのはッ!kuma
この馬鹿ッたれ!くそったれッ!タンタンを返せーッ!
 声を聞き付けて若いのが三人飛びにしてきた。
ーこの餓鬼ゃッ!張っ倒すぞツ!
 と、殴りかかろうとして栄一のそばにいる「クマ」に気付き仰天、急停車し、後退りした。怖じ気付いたのだ。

クマは脚を踏ん張り、姿勢を低くし、「うーっ」と唸っただけ。唸り声はズズンッと三人の腹に響いたはずだ。一緒に出てきた「猛犬」までが立ちすくみ、耳を垂れ、目を逸らした。クマは「猛犬」を睨み、唸ろうとした。「猛犬」はすごすごと玄関内に退却、後脚の間に尻尾をはさんで、隅っこにうずくまり、前脚で顔を覆った。

 若い奴らはそれでも虚勢を張り、震える声で、
-やい、やい・・・。
 と、何かいおうとしたがあとが続かない。騒ぎを聞き付け、奥から親分が出てきた。いきなり若いのを張り倒しておいて正座させ、それから栄一の方に向き直って臼く、
 ーあんた、カトリ栄一とかいうたな。事情は分かった。まあ、こっちに上がりなさい。

 クマに見張りを命じてから、親分の後について奥座敷にとおり、座布団を敷いた栄一に、
-あんた、新しい下駄履いてきたな。いい心意気じゃ。どうかネ、.風呂に入っていかんかナ?一番風一呂だが……。(続く)

---いただきまッしよッ。(まさかあの幡随院長兵衛のように風呂場で襲われるというようなこともあるまいし、今日は海で泳ぐかわりに風呂に入るとするか……)
 と、覚悟を決めてゆっくりと湯に漬かり、いい気持で座敷に戻った栄一に向かって親分の曰く、
---いい男になつたナ。飴湯でも飲まんか。

---俺はタンタンを迎えにきたんで、風昌に入ったり飴湯を飲みにきたわけではない。
---分かっている。お前の友だちはもう玄関にいるはずだ。
 と、いわれて玄関にいってみると、タンタンがクマの頭をなでながら上機嫌でいるではないか。それを見て、もう一度座敷に取って返し、大急ぎで飴湯を飲み、また玄関へ。

 タンタンは手と足首に繃帯を巻いていた。医者に手当てしてもらったとか、
---ほれ、こんなに繃帯したのは生まれてはじめてだ。
 と、栄一に見せびらかす。
---タンタン、お前、似合うぞツ、繃帯がツ。
 それから、親分が声を掛けた。
---二人とも、すまんかったな。これは気持ばかりのものだ。
 と、いいながら、饅頭の入った紙
袋を差し出し、地べたに正座している奴らにもう一発ずつ拳骨をくらわし、
---元気でやれや、二人とも。

 と、二人とクマを送り出してくれた。栄一とタンタンは意気揚共と帰途に着いた。「ほら、クマよ、お前も食べろや」と饅頭を袋からとりだした。それをパクリと食ぺたクマは「おおーんツ」と吠えてみせたのであった。

 無鉄砲さが影をひそめたのは、栄一の通う小学校に岡山県から赴任してきたクシ先生が組の担任になってからだった。クシ先生は日本古式泳法の神伝流目然派の第四世師範であり、冬は漢学、夏は水泳の先生として、悪戯少年を可愛がってくれた。先生を通して栄一は海の泳ぎの恐ろしさを知り、人間の尊厳を学んだ。クシ先生は文字通り恩師であった。

 海の恐ろしさを知ったからでもあるまいが、それが思わぬ人命救助につながったこともあった。八月の旧盆過ぎのある日、海っばたを歩きながら「やっぱり海は荒れてきたな」と思っていると、浜辺で数人の子供たちが何かを囲んで泣いているところにでくわした。輪の中に幼児が仰向けになっていた。

土用渡に引きずり込まれてアップアップしているのを波打ち際まで引きずり上げたが、そのままピクリとも動かないというのだ。人工呼吸など知るよしもない。栄一にしたところで、人工呼吸ということはは聞いたことはあるが、どうやるのかまでは知らないし、あいにくその場には尋ねる大人もいない。「どうしたらいいか、どうしよう・・・・」と慌てたそのとき、クシ先生のことばを思い出した。

-困った時に大事なことは、何が原因かを考えて、その原因を取り除くことに最善を尽くすことだ。
 そのことばを思い出した栄一は「そうだ、水だ!この子は水を呑んでいるのだツ!」と、いきなり幼児の両足首を掴み逆さに吊して左右に振りはじめた。子供たちの驚きを尻目に逆さ吊りの子を振りつづけていると、突然「ベェー、ベェi」という妙な音がしたかと思ったら、幼児の口からタラタラヅと水が出てきた。「しめたツ」と振りつづけると水も出続け、そしてその子が「ウエーン」と泣いたのだ。生き返ったッ!そこにいた子供たちはみんな泣いた。なぜか栄一も泣けた。それから、全員で笑ったのであった。

 さて、菓子屋から脱走して郷里に舞い戻った栄一は、しばらく謹慎していたが、やがて知り合いのすすめもあって薬屋で働くことになった。働くといっても薬品とは関わりのない掃除や荷造り、空き籍の整理整頓とか、自転車を漕いでの外回りなど、いわゆる「小僧」の仕事だったが、陰日向なく一生懸に小柄な身体を動かした。ハトシン薬局の社長もそれとなく目を掛けてくれた。

 そんなある日のこと。栄一の郷里の新潟市内で菓子屋の全国大会が開かれた。そして、東京の国産菓子組合長としてこの大会に参加していた浅草カラマツ屋の社長が一日ハトシン薬局を訪れ、栄一の顔を見ながらいつた。(続く)

-ほう、ほう、甘いのから苦いのになったなあ・・・・。しっかりやれや。
その瞬聞に栄一のこころは決まった。
---(有り難いことだ。嬉しいことだ。この激励に応えて勉強しよう。薬剤師の資格をとって、薬屋になろう・・・・)

 働きながら、手近にある薬の名前、薬草の名前、製法、効能、未知の司能性、歴史などなど、「苦いのに」関わるあらゆる知識を身に付けようと努力した。そして、その過程で、勉強の難しさと大切きを思い知ったのである。クシ先生の教えの「一寸の光陰軽んずべからず」の精神を身をもって学ぶことができた。

 薬剤師になろうと努力を重ね、もう少しで店が出せるかなというときに第二次世界大戦が勃発「欲しがりません勝つまでは」と、軍事政権による国家政策のもとで老若男女全国民が忍耐の時代に突入した。そして栄一のもとにも「赤紙」が舞い込んだのは昭和二十年八月のことで、後になって考えてみると戦争末期、無条件降伏の歴史的事件の発生時がすぐそこまで来ている頃であった。丙種台格の通知は、小柄であったためにそれまで徴兵から外されていたことをはっきりと示していた。

五尺一寸の体躯をカーキ色の軍服に包み、「武運長久」と「大日本帝国陸庫」の襷を十字に掛け、千人針を腹に巻き、年輩在郷軍人の「敵機来たらば来たれ、われに銃後の備えあり」というおきまりの檄と軍歌「露営の歌」(昭和十二年藪内喜一郎作詞・古関裕而作曲)に送られて故郷をあとにしたのは、タンポポの頭花の編毛のすっかりとび終えた終戦直前の盛夏であったが、

 勝って来るぞと勇ましくウ
 ちかって故郷を出たからはア
 手柄たてずに死なりょうかア
 進軍ラッパ聴くたぴにイ
 瞼に浮ぶ旗の波イ

から響く哀調の旋律はどこへいってもいつまでも鼓膜にこびりついて離れなかった。
 戦地最前線に着いた途端に終戦となり、まるでソ連軍に捕虜にされるために着任たようなもの、そのままシベリア大陸で強制労働の抑留生括を送ることとなった。

 そのときに役立ったのが薬剤師として身に付けた、特に漢方薬に関わるその知識で、大空間を埋め尽くして生えるタンポポに目を付け、栄養不足を補うためにその若葉をゆでて食べたり、また、四、五人の大人が手をつないでやっとかかえことのできるほどの太い幹をもつ「五葉の松」、その大枝にぷらさがっているラグビーボールよりもでかい「松かさ」、それを集めて火を付け実をとり、重要な脂肪栄養源として食用に供した。

-タンポポなんぞ食えるものか。という者もいたが、おそるおそる食してみてその案外な味に頬がゆるんだ。
 抑留地でヤポンスキー・ドクトールと呼ほれるようになったのは、抑留地のソ運軍隊長のまだ幼い息子が肺炎になりかかったときに薬剤師の腕をふるって一命をとりどめてやったから。そのときもタンポポが役立ったが、あちらこちらで計四年の強制労働をするところを、「計二年」ですませてやるから「是非ここにいてくれ」と隊長に言われた。それが「三年」になったのには訳がある。二年が過ぎようとする頃、隊長に「日本に帰るのは止めてモスクワの大学に入って医者になれ」と言われたのを断ったためだ。抑留生活を通して大自然の厳しさと生きる喜び、そして改めて人間の尊厳と絆の大切さを知った。

苦難に耐えて昭和二十四年に復員、故郷新潟の地を両の足で踏みしめ、帰国報告をするかつての少年カトリ栄一は「お国のために戦って、異国の丘にいるうちに、みーんな無うなって、こんげになってしまいましたてバ……」と、戦闘帽を脱ぎ、頭髪が消えてツルリと光る鶏卵のようになった頭をさすりながら、
ーこれからの人生はこの町のため、みなさんのために働くつもりです。それがそのまま自分のためになると信じています。

 と、今度こそはと、やがて、生まれ育った静かな町の一角に、夢にまで見た念願の「カトリ薬局」を開店、高峰三枝子に似た長身美女と結婚、いよいよ薬剤師の仕事に精出した。

そして、難局時の町内会長をしたり、消防団を組織したり、地域社会の福祉と発展のために文字通り粉骨碑身、有形無形の責献をした。その間をぬってクシ先生を継いで第五世師範となった古式泳法神伝流自然派の存続のための精進を忘れず、信濃川に掛かる橋の欄干から飛び込んでも水飛沫ひとつ立てないという高飛ぴ込み選手垂唾の技術の極意を披露したり、蛇の目傘を開いて楽しげに遊泳する姿に喝采を浴ぴたりした一〔続く〕

平成四年十一月三日の文化の日、東京の空は晴れ渡っていた。この日、秋の叙勲は総数四五二三人。女性二八五名の最高位として女優森光子(勲三等瑞宝章)の名もあった。

叙勲の式典に参列するために朝早くから皇居を訪れる人々の中にカトリ栄一夫妻の姿があった。栄一(76才〕は「県薬種商協会長」として活動した「薬事功勇」に対する勲五等瑞宝章の叙勲であつた。

「はて、何して、この自分が?」と思った栄一であったが、リストの中に、トキの保護運動に力を尽くした佐藤春雄(73才)の名が「鳥獣保護功労者」としてあったことで安増し、「それでは出掛けようか」と、上京参列することになった。長い式典で、午前中にいって四時過ぎに宿に戻った。そして、思わず出たことばが、
---いやあ、大仕事だったて。腹がすいた・喉が渇ぇーた。何か食べばならんてば。

 その「大仕事」を終えて故郷にもどった栄一の生活は、朝早く店のカーテンとガラス戸を開け、店先の鉢植ペゴニヤの花に水をやることから一日が始まるという長年のリズムに戻った。しばらくの間は、お客さん、知人友人の祝福のことばに笑顔で応えながらの日が続いた。

 常日頃、「人様の普通の健康に直結する薬屋という商売は、八十才まででしょうて…」といっていたそのことばどうりにやがて傘寿となったその日に店を閉じ、稲荷小路の一隅に居を構え、浜辺を歩いたり、ご近所の相談相手になったり、小学校で子供たちに話をしてやったり、薬屋とは違った意味での忙しい生活が始まつた。

 そして、もう何年前のことになるだろうか、厳寒の日本海沿岸のテトラポッドで岩海苔とりをし、じっくりと乾燥させ、自家謹製の「荒海苔」をつくったことがあり、それを火鉢で灸って手でちぎり、ほんのチョコッと醤油をつけ、その端っこをコリッとかじりながら燗酒を楽しむ「贅沢」は大事にしていた。

---こうして長い年月を生きておりますと、さすがに眠くなることもありますてバ…・・。これまた楽しからずやですて。
 と、栄一翁。「熱い、熱い」といいながらお銚子の酒を愛用の猪口に移しゆっくりど□にはこび目を閉じると、タンポポの花が見えた。果てしなく広がる空間を黄色い花が埋め尽くして、遠く地平線の果てまで続いている。風が吹くとその花々が波のように揺れて、サワサワと、サワサワと、うねりながら囁きながら、広野の彼方に消えていった。(終り)

編集部より
小黒昌一先生小黒昌一先生(文学部教授)の連載小説『タンボ山小の詩』が今号をもって完結しました。ご愛説ありがとうございました。
慎ましさ、謙虚さを身にまとうのは、小器用で如才のない者であれま思いの及ぶことでありましょう。ところが真に懸命であることや無私であることまでは、意思してもなかなか難しいものです。小黒先生の描く世界は、すぐそこにありそうなありふれた世界のようでいて、実のところなかなか手にとることのできない、永遠の自由に包まれた理想世界なのかも知れません。もちろん『タンポポの詩』は理想を理想として語るような観念小説ではありません。「カトリ少年」の勇気ある正直な生き方をありのまま活写しただけのような素朴な味わいです。他人から何も奪わず、他人から学びそれを他人に返すというだけの幸福。ただ正しいと思うように生きることが、困難であっても。自由であるということ。シベリア抑留の中で「人間の尊厳と絆の大切さを知った」と言い切るカトリ君の中に、さながら実存主義的ヒューマニズムのような深い精神性を感じます。
 こたんぽぽの詩の作晶の連載中に、なんとなく新聞を読んでいると、サッカー日本代表のジーコ監督の次のような言葉がなぜだか目に留まりました。
「私は全力を尽くしたか。毎日確認している。偽りのない日々を過ごしている」。
 揺るぎない名声など無いかのように、愚直に・精一杯信念を貫く彼もまた、一人の「カトリ君」なのだなあ、と感じると同時に、小黒先生のただならぬ筆力を感じた瞬間でした。


 小黒昌一さんが本を出しました。
随筆や短編小説など、読売新聞や早稲田大学新聞に載せていたものをまとめたのが、この本です。 題名の「たんぽぽの詩」
左側にある「たんぽぽの詩」を読んでみてください。 
校倉書房 2000円

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