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現代科学は、ご承知0)ように我々の身の同りの乍活環境をめざましく発展させた核物堺学の発展による原子力技術の利用。電子工学のめざましい発達によろコンピューター技術とインターネットなどの情報化、遺伝子工学の発達によるバイオテクノロジー技術、ロケットや人工r衛星などの宇宙開発技術、医学の発達による高度先進医療技術など、科学の各分野の技術進歩は目進月歩であり、実に目を見張るものがある。
そして、我々は、これらの成果は日常生活や仕事において十分亨受し'ており、科学技術のめざましい進歩を体で実感している。そのため、誰でも、現代科学は万能で正しく、絶対的なものであると思っている。しかし、現代科学が発展すればするほどダイオキシン、環境ホルモン、森林破壊による砂漢化など地球環境が汚染、破壊され、水不足、地球温暖化、エネルギー間題は益々深刻になり、医学が進歩しても、平均寿命は延びても、健康寿命の点からみると十分ではなく、人生、生活の質の改善がはかられているとはいえない。本来、科学は、自然の原理を解明し、それを人類の幸福のために役立て、利用するものであり、人類に夢と希望を与えるものであったはずである。.
科学を広辞苑で引いてみると「世界の一部分を対象領域とする、経験的に、客観的に、合理的に論証できる.系統的認識である。」宗教や哲学はある。人は真理だと考えても他の人にとってはそうではない場合があるので科学ではない。
現代科学はコペルニクスが地動説を発表した15世紀に始まったヨーロッハ近代科学が発展してできた科学であり、近代科学の方法論はガリレ・オ・ガリレイとフランシス・べ一コンが,科学の枠組みはルネ・デカルトらが確立し、これらを総合してアイザック・ニュートンがニュートン力学を体系化したものである。ガリレオ・ガリレイは、コヘルニクス、の「地動説」を支持したことで知られている、古代ギリシア以来、科学は、観察を基本に置き白然界のさまざまな現象を観察分類を基本にすることにより進んできた。
ガリレオ以前の科学は観察が主体であったが、ガリレオは実験をして科学を研究するというまったく新しい方法を創始した。ガリレオの創始した実験的手法は観察の代わりに実験によっても白然の法則を発見できることを示し、白然を研究室の中に再現することを可能にした。また、彼は、科学の対象を数学的に客観性をもつものに限定し、数量化できない主観的なものは対象から除外した。ガリレオの科学の手法は、現象を要素に分け、分析し、再合成して素の現象が再現されれば解明されたとし、次に仮説をたて、これを実験で検証し、さらに数量的に研究するという方法である。これは現代科学の方法と全く変わらない。
フランスの哲学者であり、数学者でもあるルネ・デカルトは現代科学の枠組みを作った人である。彼は徹底して思考の合理性を重視し、全てを疑ってその後に残明晰なもののみを真実と認めた。有名な「我思うゆえに我あり」の言葉は真実に至るには徹底した懐疑的精神の必要性を現している。彼の科学的手法は、まず、対象を二元論的に要素に分け、次に分けたものを、わずかでも疑わしいもの、客観的でないもの、数値化できないものを除くという作業を行なった結果、残ったものを研究し再構成すると対象が理解できるというものである。
この方法は「要素還元主義」と呼ぱれるものである。デカルトは白然を意識の世界と物質の世界の二つに分け、物質の世界は数式で表わすことのできる完全な機械と考えていた。その中には、植物、動物も含まれ、生物は精巧な白動機械とされた。すなわち、世界を機械の集合体と見なしたのである。世界が機械であれば、機械を細かく分解し、あとでもう一度組み立てることができれぱ全体が理解できる。デカルトのこの「機械論的世界観」と「要素還元主義」の考え方は、ともに現代科学の根底にある基木的な考え方になっている。デカルトの分析的手法は、今日でもあらゆる分野で用いられている。
現在、「科学的」という言葉は「デカルト的丁法」を用いているかどうかということを意昧しているといってよい。デカルトは二元論により、自然を「意識」と「物質」の二つに分けた。これによって白然科学すなわち近代科学の枠組みが決まってしまったのである。すなわち、白然科学は「物質世界」のみを研究対象とすることになり、「意識の世界」は白然科学の研究対象からはずされてしまうことになったのである。
イギリスのアイザック・ニュートンは現在、古典力学と呼ばれているrニュートンカ学」を確立した科学者で「近代科学の父」と呼ばれている。ニュートンは、万有力学の法則を発見しケプラー、ガリレオ、ホイヘンスなどの科学者の成果や白分の実験的研究の結果を分析し基本原理からすべての知識を展開するカ学の一大体系を作りあげた。これがいわゆるニュ・一トン力学である。このニュートンカ学の完成によって「天動説」から」「地動説」へのパラダイムシフトが完成したのである。この過程でニユートンはガリレオ、べ一コン、デカルトなどの科学の研究手法を統合して、新しい科学手法を確立した。これは、実験と理論の両方を重視するという現代科学の基本となっている。ニュートンカ学が確立されて以後近代科学はめざましく発展していった。
人々は科学は絶対的であり、万能であると考えるようになり科学者は科学と白然を支配する武器として発展させてきた。自然界の現象はニュートンカ学ですべて説明できると思われたが、測定機器の発達とともに、ミクロの領域の研究が進むにつれ、ミクロの頓域はニュートンカ学では説明できないことがわかり、ボーア、シュレジンガーらにより、量子力学という新しい分野が登場した。
ニュ・一トンカ学においては、物体の連動は厳密に決めることができる。しかし、量子力学では、ミクロの世界においては、速度を正確に決めようとすると、位置が不正確になり、位置を正確に決めようとすると速度が不正確になるという不確定性関係があり、未来の予測は確率では可能となるが、確定はできない。また、ニュートンカ学においては時間と空問は独立なものであり質量とエネルギーも独立なものと考えられていたが、アインシュタインは時間と空間は独立なものではなく、相対的なものであり。物質もエネルギーに変換できることを相対性理論で示した。以上のように、現代科学の手法は、対象領域を細分化、対象を分割し過ぎたため、いくつかの欠点をもつようになった、現代科学は、物質世界しか研究対象にしていないため、測定可能で、実験可能で再現性のあるものを研究対象にしてきた。それにより現代科学は分割科学になっており全体でとらえることが不得意となった。
現代科学の行き詰まり、ないし物理学の行き詰まりを感じた科学者が1970年代のアメリカを中心に、フリッチョフ・カプラ、デビット・ボームらにより、ニューサイエンス運動が起こることになる。例えば、物質は分子により構成され、その分子は原子によりできており、その原子は原子核と電子の構成になっている。また、原子核は、陽子と中性子で構成され、陽子や中性子はクォークという素粒子の集合であることまではわかっている。現在のところ、最新鋭のシンクロトロンという加速器を用いても10のマイナス18乗センチメートルが測定限界であり、クォークを構成する超微粒子は10のマイナス33乗センチメートルと推測されているので、とても測定不可能であるということになる。
このように、現代科学は、物質の研究の解明に関しては、壁にぶち当たって解明の糸口は見つかっていない。こういう中で先のニューサイエンス運動が起こるのである。彼らは、物質世界はクォークのような基本的構成要素に還元できるものではなく、全体が相互に関連し、すべてと調和しているので、全体的包括的な見方に立ってこそ理解できると考え、っまり、現代科学の行き詰まりは、「要素分析還元主義」と「機械論的世界観」にあると考え、行き詰まりを打開するには、分割せずに、全体を包括してとらえる新し'い理論を取り入れなければならないとした。また、ボームは、現実に見えているこの世界(明在系)の背後に、全体を操っている秩序(暗在系)があり、全体は部分の中に織り込まれている。
この現実世界は、穏された「何か」の投影された姿である。投影されたものの中には、時空間、物質のみならず意識も含まれる。暗在系の背後には、暗在系をコントロールし組織化している超暗在系が存在する。そこには叡智が存在する。また暗在系はエネルギーに満ちているといっている。つまり、この宇宙は多次元構造になっており、その究極の支配者は、神、創造主であり、人間の意識もそれらとつながっているといっているのである。
宇宙は相似(フラクタル)の階層構造になっている。原子は、原子核の周りを電子が回る構造をしているが、太陽系も太陽の周りを地球などの惑星が回転し、さらに太陽系全体は、いくつかの太陽系が上位の太陽の周りを回る構造をしている。これが銀河系である。銀河系が集まって銀河団を形成し、それらが集まって宇宙を構成しているのである。よく宇宙に対して人間を小宇宙と呼ばれることがある。
人間も宇宙と同じように階層構造になっている。人間は肉体と脳を中心にした神経情報システムとで構成されていると考える人はいないと思うが、それでは、肉体という容れ物にいったい何が入っているのかとなると脳、精神、意識、心、魂、霊魂など、立場によってかなり違いがあるのではないかと思われる。実は、昨年、WHO憲章の改訂のための議論がなされ、従来の肉体的、精神的、杜会的に良い状態が健康であるとされてきたものに、スピリチュアル(霊性)という概念を入れようとしたのである。各国、民族、宗教など立場により、その定義、解釈が異なり、時期草尚ということになり延期されたという経緯があったが、健康は単に肉体的、精神的、杜会的な面だけで得られるものではなく、それらを統括する「霊性」の存在なくしては決して得られないということを世界的にも気づいてきたということであろう。
しかし、霊魂の存在証明は、非常に難しく、臨死体験、生まれ変わり現象、体外離脱体験、退行催眠などを通じて科学的研究が進められてはいるが、どうも、人間に「霊性」とかr霊魂」の存在を認める立場に反対の人々も依然と多いのも事実である。しかしまた、人間には脳と肉体以外の要素はないと主張する人も少ない。そこで「霊性」とかr霊魂」に対し違和感があっても、少なくとも「心」と置き換えることにより抵抗は減るものと思う。昔からよく「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といわれる。
人は、よく腰が痛かったり、膝が悪いと健康に不安が残り、活動的になれないし、気持ちも沈みがちになるという。しかし、腰や膝が良くなったとしても、また再発したり再燃したりするのではないかと不安になり、前向きになれないという人をよく見かける。一方、病気の人でも、「私は、体は病んでも心は元気です」と明朗に言い、積極的に物事にきちっと向き合って生きてゆく人は時間がかかっても病気が癒えてゆく。こういう経験をすると実は「健全なる肉体は健全なる精神に宿る」という方が真理のような気がしてならない。人間の健康は、つまり肉体的、杜会的な健康は健全なる精神により導かれ、その大本、つまり根源は「霊性」又は「心」であるといえないだろうか。そしてWHO憲章の内容もそのように解釈できるのではないかと思う。
先に述べたように、デカルトは、自然科学から意識の世界を除き、物質の世界だけを研究対象としたため、医学の世界も、意識を除いた肉体のみを対象として研究してきた。人間を少なくとも、ボームのいう、明在系と暗在系より構成されているという.立場でみることはなかったのである。医学は人間を、臓器、組織、細胞、核、遺伝子というようによりミクロの方向に向かい、治療法もやはり、臓器、組織、細胞、核、遺伝子をターゲットにしたものになっており、あくまで局所療法にとどまづている。臓器に障害が生ずるのは、その細胞、核、遺伝子に間題があったからではなく、臓器のネットワーク、さらには全細胞の協調、調和が乱れ、ホメオスターシスが維持できなくなった結果、臓器に障害を起こし病気になったと考えられる。
人体は60兆個の細胞で構成されており、さらに皮膚、口腔内、消化管などの常在菌などを含めるとおぴただしい数の細胞、微生物による生態系で成り立っているとみることができる。このオーケストラのシンフォニーを、つまり、ホメオスターシス、健康を指揮するのは、先程から述べているように「霊性」又は、「心」である。それを単に、ビタミン、ミネラル、薬剤、食事などによる、機械論的、要素還元的考えにより使用したとしても、真の健康は得られるものではない。さらに、「霊性」又は「心」が自然治癒力とか自己治癒力の根源を成していると考えられる。この「霊性」又は「心」が60億の人類及び地球上の全ての生物、無生物の「心」とつながり、宇宙の創造主、村上和雄のいうグレートサムシングとつながっていると考えた場合、一個人の健康は、一個人により成り立っいるのではなく、それを支える無限の存在が背後あると考えたら、何とも雄大なこころもちになるのは小生一人だけではないであろう。
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