グレローロゴマーク                      神田界隈 北側
  
 グレローを中心にして(勝手に決めてる)北側、南側に分けてみた。要するに一つのページにしていると重いのでしただけ。靖国通りで分け皇居よりを南側に、中央線側を北側にしてみました。
「神田」は、東京都千代田区の中心、皇居から見て南・北方向に広がり、現在はJR神田駅の西側に広がる一帯です。これは1590年(天正8年)に、江戸に幕府を開く際、戦略的な重みを考えて、西・北の台地の方向に、有力な大名屋敷を配し、東・南・北の低湿地帯に町家を集めたことに始まります。東の日本橋から、南・北の神田へは、水運に恵まれ日本橋から鎌倉河岸に至るまで、魚河岸や青物市場が開かれたこともあって、町家(商人・職人)の街(いわゆる下町と呼ばれている)が形づくられていきました。   
  絵画は 下田祐治氏が描く「神田百景」懐かしい神田 再発見  制作 発行(有)あとりえ・えーすより
グレロー便り
  明治大学
明治大学 リバティタワー  御茶ノ水を駿河台坂を下りてくると右側一帯に明治大学が集まっている。それも今は高層ビルになって都市型大学。90旧明治大学
 明治法律学校、のちの明治大学は岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操によって創立された。1881(明治14)年1月17日、麹町区の数寄屋橋の一角・島原藩邸跡に法学校を開校した。1886(同19)年12月11日、神田南甲賀町に自前の校舎を新築し、移転した。明治法律学校が大学令による大学(「明治大学」)となったのは1920(大正9)年4月1日のことである。「明治大学」認可、法・商・政・文の4学部体制、駿河台移転、総合大学としての明治大学が成立したのである。明治大学は1980(昭和55)年11月4日、創立100周年を祝った。駿河台キャンパスは、本拠地。23階建ての校舎「リバティータワー」は、神田駿河台地区のランドマーク。明治大学の歴史から
  
   日本大学
   日本大学法学部大学院 元主婦の友社 
 御茶ノ水から駿河台に向かって下ってくると、右側が日大病院、歯学部、そして写真のビルに大学院(このビルは元主婦の友社、カザルスホールがある)猿楽町、三崎町に各学部が点在している。左側には明治大学がまとまっている。
この建物、法学部大学院の左側にカザルスホールがある。
 日大史から
 明治22年1889年に設立された日本法律学校が全身。学祖は、時の司法大臣山田顕義。法典整備に尽力し、皇典講究所(現国学院大学)の設立にも関わる。日本法律学校は、明治34年に「専門学校令」による大学組織に改め、校名を「日本大学」明治34年に高等師範科、大学部に商科を設置。法律以外の分野に広げていった。明治23年(1890) 6月 初代校長に金子堅太郎(後の司法大臣)就任 9月 東京・飯田橋の皇典講究所で開校式挙行
明治28年(1895) 7月 東京・神田三崎町に初の校舎落成
 
 神田明神
神田明神   神田祭で有名な神田明神。御茶ノ水駅(10分)から聖橋を渡ると湯島聖堂(文京区)。その先の道一つ隔てた所にある。昔から甘酒屋が多い。
 神田明神には三柱の神様がお祀りされています。だいこく様、えびす様、平将門命(タイラノマサカドノミコト)門前の甘酒屋
  社伝によると天平2年(730)創建とあり、現在の千代田区大手町(武蔵国豊島郡江戸芝崎)にありました。時移り徳川家康が江戸に幕府を開くと、江戸城の表鬼門にあたる現在地(千代田区外神田)に移転し、江戸総鎮守に相応し壮麗な桃山風の社殿が幕府により築かれました。 当時は、華麗な山車が延々と36台以上も続いて江戸城に入り、将軍をはじめ大奥の女性に至るまでが上覧し、贅を尽くした祭礼は二年に一度の風物詩。 明治を迎えると東京府社・準勅祭社に定められ、大正15年の関東大震災により社殿はじめ社宝等を失いましたが、昭和9年当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート造り総漆朱塗り権現造の現在見ることのできる社殿が造営されました。
  
    築土神社

築土神社 九段下交差点から飯田橋に向かうと、一本目を左折。これを一口坂という。少し登ると左側のビルの奥にひっそりと建っている。入って良いものか、少し迷う。グレローから歩いて6分から8分。
   
旧称  津久戸大明神 江戸明神 田安明神
御祭神  <主神> 天津彦火邇々杵尊 <相殿> 平将門公 菅原道真公
 築土神社は940年(天慶3年)6月、関東平定の末、藤原秀郷らの手で討たれ京都にさらされた平将門公の生首を首桶に納め密かに持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現 ・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神と称したのがはじまり。江戸城築城後の1478年(文明10年)6月には、太田道灌が江戸城の乾(北西)に当社社殿を造営。太田家の守護神、そして江戸城の鎮守神として厚く崇敬された。1552年(天文21年)11月には、田安郷(現在の九段坂上からモチノキ坂付近)に移転。田安明神とも称し、山王(日枝神社)、神田(神田明神)とともに江戸三社の一つに数えられ、江戸庶民の崇敬の的となった。現在地(九段中坂)にあった世継稲荷神社の敷地内へ移転し新社殿竣工。1990年(平成2年)9月には鎮座1050年記念大祭を斎行した。 ビル名は「アイレックスビル」と名付けられたが、「アイレックス」とはモチの木を意味し、かつて築土神社が九段坂からモチの木坂に至る田安の地に鎮座していたことにちなんでこの名が付けられた。千代田区九段北1-14-21   http://www.geocities.jp/tsukudojinja/

大村益次郎 銅像
大村益次郎 銅像
  靖国神社の大鳥居をくぐり、参道の中頃に、かなり高い台座の上に立っているので、顔がよく判らない。グレローから7〜8分。
1893年(明治26年)大浜氏廣の作。日本初の洋風銅像。
 長州藩出身。靖国神社の創始者、日本陸軍の祖。下田祐治氏 靖国神社
蘭学医の出であるが、西洋の兵術などの才能を桂小五郎に買われて軍隊の指揮を任される。「戊辰戦争」では、その手腕により新政府軍を勝利に導く。明治維新後は、文字通り、軍権の全権を担い、軍隊の西洋化を奨め、日本陸軍の礎を築く。明治2年に過激な攘夷派による襲撃を受けて、その傷がもとで死去する。その性格は頭脳明瞭で合理的な思考であるが、堅物で人当たりが下手であったため、人から誤解を招くこともあった。愚直なまでに新しい時代を作り上げようとした男であった。生活はひっそで、夜は豆腐一丁と一合の酒で有ったと言う。
 「大村益次郎」像は、上野公園の「西郷隆盛」像の方向を向いて立っている。という噂である。大村益次郎と西郷隆盛は、共に、明治維新の主役であるが、その人物像、生き様は全く対照的ともいえる人物で興味深い。



 湯島聖堂 昌平坂学問所

孔子廟 大成殿 神田(文京区)ではないのですが、聖橋の由来になった、もう一つの聖堂。聖橋を渡った右側にある昌平講(通称)孔子像
 1790(寛政2)年、武士の学問を重視した老中松平定信は、儒学のなかで朱子学を正学とし、他の学派を異学とする寛政異学の禁を定めて、朱子学の振興をはかった。林家の系統以外の学者を教官に登用し、1797(寛政9)年には聖堂西隣の学寮・宿舎を建てるなど、施設の整備拡充をはかり、幕府の正式の学校とした。やがて昌平坂学問所と名づけられ、直参の弟子のほか、諸藩の俊才が青雲の志を抱いて集まる最高の学府となった。   現在の建物は、関東大震災で入徳門・水屋を除いて類焼し、1935(昭和10)年にコンクリート造で再建されたもの。1799(寛政11)年11代将軍が、明制にならって、黒漆を塗り、屋根に銅瓦をふいた荘重な様式を踏襲している。仰高門から入徳門へとすすみ、石段をのぼって杏壇門を入ると、東西に石畳を敷き詰めた回廊があり、正面には大成殿がある。(国史跡)

文京区湯島1-4-25 

ニコライ堂

 ニコライ堂 全景   先週は、聖橋を見たので、今週はその聖の一つ。。昔は御茶ノ水駅から丸いドームが堂々とそびえ立っていたが、周りに高層ビルが立ち並んできたので、見えない。聖橋から3分ぐらい本郷通りを下がると、右側に折れる紅梅坂を上がると左側にニコライ堂。
 正しくは日本ハリストス正教会復活大聖堂といい、1861(文久元)年に函館のロシア領事館司祭として来日した、ギリシア下田祐治氏 ニコライ堂 あとりえ・えーす正教会大主教イワン=デミトロヴィチ=カサーツキン(修道名=ニコライ)が、1884(明治17)年に駿河台火消屋敷跡に建設を始め、1891(明治24)年に完成させた。ロシア人シチュールポクの設計で、日本における西洋建築の草分けといわれるイギリス人コンドルの工事監督になるものであったが、関東大震災で被災し、1929(昭和4)年に修復された。日本最大のビザンチン様式建築物(重要文化財)。
東京都千代田区神田駿河台4-1-3
TEL:03-3295-6879(東京復活大聖堂教会)
交通:JR御茶ノ水駅聖橋口


聖橋

  聖橋                                  聖橋は、下田祐治氏 聖橋 あとりえ・えーす神田川に架かる橋です。独特のアーチ形状をしています。下にあるのは中央線お茶の水駅。
東側に昌平坂を下りた所は戦後出現した秋葉原電気街があり、秋葉原のやっちゃ場(元野菜、果物市場)の再開発で高層ビルが見えます。
 聖橋は、東京市により関東大震災の復興橋りょうとして、総工費72万4807円で2年8か月の歳月を要して昭和2年7月に完成した。神田川の美しい景観の中にあってこの橋のデザインには、とくに気を使い、橋長92.47m、幅員22mのモダンなアーチ橋が架けられた。橋名の由来は、北側にある国指定の史跡で江戸幕府の官学所「湯島聖堂」と、南側にある国指定の重要文化財でビザンチン風の建物「日本ハリストス正教会復活大聖堂」(通称ニコライ堂)の両聖堂にちなんでいる。聖橋は、近くの鋼ラーメンの御茶ノ水橋、アーチの昌平橋、万世橋とともに「東京の著名橋」に選定され、神田川の名所となっている。(東京都 「聖橋の由来」より)

お茶の水

御茶ノ水坂  グレローから歩いて15分。駿河台の交差点から左折。坂を上りきると、御茶ノ水駅。又神保町交差点から水道橋駅を超え、右折し御茶ノ水坂を上がると御茶ノ水駅。どちらからでも行かれるが、私は、この御茶ノ水坂が好きだ。中央線が走り、坂との間に掘り割りがあり、護岸にも、緑が多いし人通りが少ないのがいい。御茶ノ水分水路途中に分水路の碑があり、昔の水道の碑がある。
 「お茶の水」の由来。
家康の入国以来、江戸では大がかりな土木工事が多数行われましたが、「神田御茶ノ水掘割」もその一つです。江戸の初期、この谷の近くの高林寺という禅寺の庭から良質の湧き水が出ました。これを当時の将軍秀忠に献上したところ、その水でいれたお茶がたいへんおいしいとほめられたことから、この一帯がお茶の水と呼ばれるようになりました。

  
 東京大神宮  
大神宮1                                   
 グレローから九段下交差点を右折して飯田橋に向かい左斜めにはしる坂が有る。この坂を大神宮通りと言い、上がると大神宮が右手に見えてくる。最近は結婚式場に力を入れてるようだ。
JR中央線飯田橋駅から徒歩約5分 。以下は大神宮のパンフレットから
  江戸時代、伊勢神宮への参拝は人々の生涯かけての願いでした。明治の新国家が誕生すると、明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年に創建された当社は、最初日比谷の地に鎮座していたことから、大神宮2世に「日比谷大神宮」と称されていました。関東大震災後の昭和3年に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至っております。
 東京大神宮は「東京のお伊勢さま」と称され親しまれていますが、伊勢両宮(内宮と外宮)の御祭神である天照皇大神と豊受大神、さらに倭比賣命を奉斎していることによります。また、天地万物の生成化育つまり結びの働きを司る造化の三神が併せまつられていることから、近年縁結びに御利益のある神社としても知られ、良縁を願う若い人たちのご参拝も年々多くなっているなど、その御神徳は実に広大無辺なものがあります。
 家内安全・商売繁昌・開運厄除・交通安全・学業成就など。

千代田区富士見2−4−1

 
カトリック神田教会
  
カトリック神田教会 
グレローから歩いて、約6〜7分。神保町2丁目の隣、猿楽町にある、カトリック神田教会は1874年(明治7年)1月に創建され東京の教会でも有数の歴史を持つ教会。現在の聖堂はフランス人宣教師シェレル神父の構想により、1928年(昭和3年)に完成したもので、当時の面影がそのまま残っています。神田教会聖堂は2001年に文化庁の有形文化財として登録されました。
[明治の再宣教の出発点となった教会] 
 禁教令の解けていない明治5年にはカトリック神田教会 下田祐治 作三番町にラテン学校なる外国語を教授する名で学校を作り、英語・フランス語・ドイツ語の他、ラテン語を教えたのです。これは隠れた神学校だったのです。
 ラテン語を学ぶ人たちにのみ宿舎が用意され食事も供されたことを考えればこの学校の真の目的が何であったか理解できます。宣教師たちが将来のこの国の宣教のためにまず「人材の育成」に着手したのです。開校の翌年、禁教令も解け、学生の数は増え、明治7年1月に三つの旗本屋敷(約3000坪)をフランス公使ベルトミー氏の斡旋により入手し、神田の猿楽町に移転して来ました。

http://www.catholickandachurch.org/seidou.htm


女坂   女坂      
   女坂 絵                            この坂はマロニエ通りと呼ばれる駿河台の高台と神保町方面の低地をむすぶ急な石段です。付近にはアテネフランセや文化学院等があり、与謝野晶子や夏目漱石もこの石段を歩いたと思われます。 当時は坂の上に純和風の家がありましたが、現在は近代的なビルになっています。/1985年)
田祐治が描く「神田百景」懐かしい神田 再発見  制作 発行(有)あとりえ・えーすより

 現在の女坂は右側を改修工事をしており、あまり雰囲気がありませんが改修工事がおわれば、もっと感じが違うでしょう。周りのビルが高いせいか、威圧感を感じます。上から降りるとかなりの急勾配です。 


靖国神社

本殿 九段下から九段坂を見上げると、下の大鳥居が見える。坂を上がった所に立つ大鳥居は威圧感がある。グレローから歩いて10分ぐらい。
靖国神社の前身は、東京招魂社といい、明治2(1869)年6月創建。この創建に尽力したのが大村益次郎である。幕末、国事に奔走し、中途に倒れた志士を京都東山の祀堂へ祭ったのが始まりである。遷都の後、、東京となり、東山の祀堂も移され九段招魂社とよばれた。大鳥居
  明治8年(1875)、太政官布告で、明治元年以前、旧藩に於いて殉職死し、その後名前が判らず祭祀等に漏れていた人々を広くさがし出し、招魂社へまつった。つまり、東京招魂社は幕府政治体勢の霊を慰め、その遺志を長く記念するための神社として設立されたのである。明治時代も落ち着くと、天皇の為に死んだ人達しか祭っていない。西郷隆盛などは、祭られていない。
  敷地は縦長で、第一鳥居から第二鳥居、神門、寝殿造りの拝殿、神明造りを模した本殿、そして靖国特有の霊璽簿奉安殿が、まっすぐに通っている。  
 古地図で見ますと、歩兵屯所の跡らしい。靖国神社で検索すると、凄い数がヒットし靖国神社問題の関心度の高さを知る。しかし外国の貴賓客が来られて、顕花する処がないのは、問題ですね。 

三崎稲荷神社

三崎神社  
  三崎稲荷神社 の例大祭。ゴ−ルデンウィ−ク真っ只中  5月4・5日。オープン準備そっちのけで、神輿を追い掛け回し後で反省しきり、 マタマタ遅れそう。 遅れついでに、三崎神社の歴史をみてみた。
  水道橋の駅のすぐ横、後楽園の反対側の路地にある神社。  このあたりの氏神様で、800年以上前、まだ神田山があったころ、山麓の鎮守の杜(もり)。その後、小田原北条氏が関東の主として江戸城に入り、北条氏綱が参拝し、社地を献じました。
  徳川の時代になり、神田山を切り崩し、江戸                    城の東側の湿地帯を埋めて「神田」という土地を造った後、三代家光が参勤交代の制を定めた折、自ら本社を崇敬し、大小名が、参勤登城する際と帰途に、本社に参拝することを恒例としました。  そのため、明治に至るまで旅行守護の守り札を受ける人が多かった。 関東大震災、昭和の大戦ですべて焼けてしまいましたが、昭和38年に氏子崇敬者により復興し、 今は小さい社殿ながら、広い氏子町会に支えられ、二年に一度の本祭りに三尺八寸 の本社御輿を、各町会で担ぎます。 氏子9ヶ町による町会神輿の宮入道中 例年、町会神輿の宮入りは土曜だったが,今年は、 祭日ということもあり担ぎ手は充分。 来週は、神田祭。いよいよ初夏である。  
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