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神田 界隈 南側
グレローを中心にして(勝手に決めてる)北側、南側に分けてみた。要するに一つのページにしていると重いのでしただけ。靖国通りで分け皇居よりを南側に、中央線側を北側にしてみました。
「神田」は、東京都千代田区の中心、皇居から見て南・北方向に広がり、現在はJR神田駅の西側に広がる一帯です。これは1590年(天正8年)に、江戸に幕府を開く際、戦略的な重みを考えて、西・北の台地の方向に、有力な大名屋敷を配し、東・南・北の低湿地帯に町家を集めたことに始まります。東の日本橋から、南・北の神田へは、水運に恵まれ日本橋から鎌倉河岸に至るまで、魚河岸や青物市場が開かれたこともあって、町家(商人・職人)の街(いわゆる下町と呼ばれている)が形づくられていきました。
絵画は 下田祐治氏が描く「神田百景」懐かしい神田 再発見 制作 発行(有)あとりえ・えーすより |
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国立公文書館
 北の丸公園の端にあり、隣が国立西洋美術館。西洋美術館には何度も足を運んでいる。この公文書館はあるのは知っていたが、何なのかは、知らなかった。HPで調べてみると、面白い事が判った。以下HPから
総理大臣から移管された公文書を保管、一般へ提供。業務内容、主な所蔵品の紹介、
利用案内、目録検索。国の保管に係わる歴史資料として重要な公文書などの適切な保存と、いっぱんの利用を図ることを目的した施設。現在所蔵している公文書は、昭和46年の当館開館以来、政府各府省庁から移管されたもので、約54万5千冊。
『日本国憲法』『終戦の詔書』 御署名原本 新・旧憲法、詔書、法律、勅令、政令等、の公布原本です。これらの御署名原本は特に重要であるため、貴重書庫に厳重に保管しています。
カビや虫害を防ぐため、専用のガスを使って、減圧滅菌装置のなかで、くん蒸されます。整理
確認し整理します。 書庫はいつも空調設備で、温度22度、湿度55パーセントに保たれています。
現在所蔵している歴史資料としての図書類は、江戸幕府以来の政府の諸機関が作成あるいは収集したものを中心に内閣文庫に引き継がれた約49万冊。国立公文書館では、明治政府が江戸幕府からひきついだ日本や中国の古書・古文書を所蔵しています。
・後醍醐天皇綸旨(ごだいごてんのうりんじ)・吾妻鏡[北条本](あづまかがみ[ほうじょうぼん])・足利尊氏袖判下文(あしかがたかうじそではんくだしぶみ)・李太白文集(りたいはくぶんしゅう)・西遊記(さいゆうき)・四書五経(ししょごきょう)・伊勢物語(いせものがたり)その他。 今度、行ってみよう。 |
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東京国立近代美術館
グレローから歩いて10分ぐらい。竹橋を渡った北の丸公園の端にある。日本で最初の国立美術館。
古くは明治初年より、同時代の美術を恒常的に展示する美術館を要望する動きが起こり、昭和27年(1952)年、中央区京橋の旧日活本社ビルの土地建物を購入し、同年6月、文部省所轄の機関として国立近代美術館が設置され、建築家前川國男氏の設計による改装工事を施して、同年12月に開館。
所蔵品の増加を企画展の拡充等により、コレクションの展示がしだいに制約されるようになったことから、美術館の移転が検討、評議員である石橋正二郎氏より美術館建物の寄付申し入れがり、その好意によって、北の丸公園の一画に新館造営が決まり、谷口吉郎氏の設計による新館が、昭和44年(1969)年6月に開館しました。独立行政法人国立美術館
東京国立近代美術館 資料より |
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東京国立近代美術館工芸館
北の丸公園内。工芸館では染織、陶磁、ガラス、漆工 、木竹工、金工などの工芸や工業デザインに国内外の作品約2,400点が収蔵されています。
赤レンガの建物が建てられたのは明治43年(1910)。赤レンガ、2階建てのそのたたずまいは、明治時代の代表的洋風建築として数少ない貴重な存在となっています。
この建物は、かつては陸軍近衛師団司令部庁舎として使われていました。昭和47年(1972)に文化庁が「旧近衛師団司令部庁舎」として重要文化財に指定し、外観と玄関、広間を保存するとともに建物を東京国立近代美術館の分館として活用することになったのです。昭和52年(1977)に東京国立近代美術館工芸館としてオープンしました。
絵は下田祐治氏{神田百景」工芸館
あとりえ・えーす
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如水会館(じょすい)
グレローから歩いて5分ぐらい。一ツ橋交差点のたもと。
この交差点は一つが、一ツ橋大学の如水会館、一つが東大の 学士会館、一つが共立女子大の共立講堂が占めている。如水会館(一橋大学OB向けの学友会館)がある。今はホテルとレストランに貸事務所になっている。写真の後ろに立っているのが、旧一橋講堂跡に建てた「学術総合センター」
如水会館の如水とは「君子交淡如水」という礼記(らいき)から採られて命名されたものらしい。礼記の本文に、「君子交淡如水、小人交甘如醴」「淡如水」の意味は、「水の流れの如く、絶えることなく永く変わらない交際をする」という意味も含んでおり、「君子は自分の領域と相手の領域をわきまえて、相手の領域に土足で踏み込むような失礼な付き合い方はしない」渋沢栄一翁の言葉だった、「如水会館」命名の謂れを詳説した額が飾られている。

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一橋徳川家 屋敷跡
グレローから歩いて12〜13分。丸紅本社の敷地内に立つ。下の写真が一ツ橋、日本橋川に架かり、上に高速道路が走る。この先が神保町交差点。
隣に立つ説明文から
一橋徳川家は、寛保元年1741年 徳川八代将軍吉宗の第四子宗尹が江戸城一橋門内に屋敷を与えられた事が始まりである。
一橋家・田安家・清水家は御三卿と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎが無く、御三家(尾張、紀伊、水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式を持ち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。
当家は、二世治済が十一代将軍となり、水戸家より入った。一橋九世が徳川最後の十五代将軍徳川慶喜であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。
敷地は広大で、丸紅、気象庁、大手町合同庁舎付近まで及んでいた。
かなり広大な敷地です。
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北白川宮能久親王の銅像
グレローから歩いて15分ぐらい。北の丸公園の東京国立近代美術館工芸館(レンガ作りの元 近衛師団の本部)の側にある。
弘化4年(1847)伏見宮邦家親王の第九皇子として御誕生。嘉永元年(1848)青蓮院しょうれんいん宮御相続、安政5年(1858)輪王寺りんのうじ宮御相続、公現こうげん法親王(俗名能久よしひさ)と称せられ、上野寛永寺の門跡もんぜきとなられる。明治3年(1870)還俗げんぞくして伏見宮に御復帰、軍籍に就かれた。年陸軍少将、歩兵第1旅団長、参謀本部御出仕。近衛師団長に、近衛師団を率いて台湾に御出征、炎熱瘴癘えんねつしょうれいの地で疫病に罹らせ給い、明治28年10月28日(1895)台南に於て薨去遊ばされた。49歳。
銅像は、明治36年1月26日、北の丸に駐屯していた近衛歩兵聯隊正門前に建立された。制作は、渡台時近衛騎兵として側近に仕えた斯界の大家新海竹太郎によるもの。昭和60年10月28日親王90年祭にあたり元近衛師団戦友会誌す |
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元帥大山巌の銅像

九段坂公園、そこにある騎乗姿の銅像です。前回の品川男爵の側にあります。
鹿児島生まれ。陸軍軍人、元老。父は薩摩藩士。明治新政府で陸軍卿・陸軍大臣、近代的日本陸軍の建設に貢献しました。日露戦争での満州軍総司令官としての活躍は有名です。西郷隆盛の従兄弟であり、キヨソネ作西郷の肖像画の顔下半分は、大山巌の顔の下半分がモデルとされています。司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』のなかで、日露戦争の満州軍総司令官として登場します。
また『君が代』を国歌とすべきと発議した人としても知られています。彼は欧米各国がそれぞれ国歌を持っているということを聞き、英国陸軍の軍楽長J・W・フェントンに作曲を依頼したそうです。その後雅楽調で作曲され、フェントンの後任のドイツ人エッケルトが吹奏楽用に編曲したのが現在の曲だそうです。
(大将たちの史跡から) |
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品川弥二郎像

靖国通りの九段坂を上がり田安門を通りすぎると灯台(常燈明台)があり、その隣に立っている。グレローから10分ぐらい。
明治の政治家。萩藩足軽の子として誕生、松下村塾に入り吉田松陰に学び、その思想的影響を受けて、尊皇攘夷運動に参加、高杉晋作らとイギリス公使館焼き討ち事件にも参画した。老中間部詮勝(まなべあきかつ)要撃策に加盟、イギリス公使館焼打ちに参加、蛤御門の戦、四境戦争に従う。薩長同盟の席に立ち会い、討幕を画策。維新後ドイツ公使宮中顧問官、内務大臣、枢密院顧問官等を歴在。産業組合設立に尽す。明治33年(1900)没、58。日本最初の軍歌「トコトンヤレ節」(宮さん、宮さん、お馬の前のピラピラするのはなんじゃいなトコトンヤレ)の作詞者でもある。
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竹平寮
グレローから歩いて3分ぐらい。日本橋川と内堀通りに挟まれた、千代田公会堂の前にあった。今は取り壊され、平地で駐車場になっている。旧憲兵司令部下士官アパート。1935年(昭和10年)設計は大蔵省。当時としては最高の建物だったのだろう。鉄筋コンクリート3階建て。
2000年当時、まだ一部の部屋に住人が居て、夕方になると所々の部屋に灯りが見え、かなり荒れた様子で、蔦が覆い幽霊屋敷のようだった。
この間の、千代田週報では、ここに千代田区役所が移るらしい。
どうして、すぐ、建物が建つのか?100歩譲って区役所が立ったとして、今有る区役所の跡地はどうするのか?又 そこに変な理由を付けた、省庁の外部団体の建物を建てるのは辞めて欲しい。
内堀通りに面した内側(皇居側)には、九段会館、千代田区役所、千代田公会堂、昭和館(なぜ、ここに建てたのか解らない、中途半端な規模で景観を壊している)の四軒しかない。九段会館は歴史的にも、認めるとしても、後の3つは、ここである必要性はないはず。牛ヶ淵が゙見られる、この場所は公園にするべきではないか。都市の景観や、都市計画等 持っていない行政には無理か?。
千代田区九段南 1-2-2
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日本教育会館

日教組の関連団体で作られた会館。
日教組の大きな会議が有ると、直ぐ判ります。右翼の宣伝カーが多く集まり、がなり立てるからです。行ってみると、警察官に囲まれながら、グレローから歩いて3〜4分。
日本教職員組合の略。日本最大の教職員労働組合。
パンフレットから
当会館は、教育・文化の振興と子どもたちの幸せを守り、はぐくみたいと願う全国の教職員の協力で建てられました。
最新設備の一ツ橋ホールと多目的な大小の会議室は各種の催しを実り多い豊かなものにすることができます。教育文化図書を中心にした教育図書館は約6万冊を所蔵し、一般に公開しています。
「一ツ橋画廊」は、芸術を志す皆様方に、作品の発表の場を提供することともに、広く内外の文化を紹介したいとの趣旨で開設しています。
各種集会、音楽、演劇、映画会などの各方面の皆様の施設として、ご活用をお願いいたします。
東京都千代田区一ツ橋2‐6‐2
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常燈明台(じょうとうみょうだい)
九段坂を上がって行くと、北の丸公園の入り口の右側に立つ、金色に輝く風見をもつ不思議な塔は「灯台」です。今では想像もできませんが、九段坂の上からは東京湾(江戸湾)がよく見えたのでしょう。
明治4年(1871)靖国神社(当時東京招魂社)に祭られた霊のために建てられたという。正式には高燈籠といい通称九段の常燈明台と言われている。初めは靖国神社前偕行社(現住宅公団前辺り)の構内に築造され,台石は当時の各藩からそれぞれ拠出されたと伝えられる。この明台の明かりは品川沖に出入りする船だけでなく,遠く房総からも望見されたという。昭和5年(1930)道路改修に伴い,現在地に移転された。平成元年に老朽化のため復元作業がなされた。明治の浮世絵師小林清親「九段坂五月夜」雨の夜の九段坂の常燈明台が描かれている。前には住宅公団側に有ったと言う。この絵は九段坂上から見て描いたものでしょう。
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共立講堂
神保町の交差点から皇居に向かって行くと右側に有り、共立講堂はその名の通り共立女子大学の講堂で、一般に神田共立講堂と良く呼ばれていました。
日本のフォークやロックはもちろんのこと海外からのアーティストの公演にもしばしば使用されました。私の思い出では、スキー映画の夕べや大学の演劇等で何度も行きました。しかし消防法の改正により一般に貸出しすることが不可能となり、現在は大学の入学式や卒業式そして学園祭などの催し物に使われるだけになっている。
共立講堂は昭和13年にオープンし、当時としては日比谷公会堂と並ぶ大ホールで、戦前戦後を通じ音楽や演劇などに良く利用されていた。残念ながら昭和31年に火災のため焼失してしまい、現在の建物は翌昭和32年に再建されたものです。客席数は1500程度。 隣に建設中の高層ビルは共立女子大学新校舎。
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出世不動
雑居ビルが立ち並ぶ出世不動通り JR神田駅西口を出て70メートルほど歩くと、「出世不動通り」と書かれた赤い看板が目に入る。交通量の多い一方通行の両脇には、雑居ビルが立ち並ぶ。ほとんどが企業のオフィスだが、その間に、豆腐店や履物店、酒店など歴史を感じさせる古い店舗を見つけることができる。200メートルほど進んだ所に、小さな本堂がたたずんでいる。その敷地は、わずか幅2・5メートル、奥行き6メートル。急ぎ足だと見逃してしまいそうな本堂だが、ここが通りの由来である出世不動尊だ。1988年、千代田区も区道として「出世不動通り」の名を正式に採用している。 出世不動尊は、1200年前に創建されたと言われる。かつては、2と7のつく日に、通りで縁日が開かれていたことから、「二七不動」とも呼ばれる。
不動尊の向かい側で酒店を営む藤田勲さん(70)は話す。 空襲の時、この不動尊を埼玉県川越市の僧侶が背負って逃げ、難を逃れたという話が残っている。
また、昭和末期には、地上げ攻勢で移転の危機にさらされた。 「不動産業者を名乗る男が突然やって来て、『ビルを建てるから、お不動さんを通りの裏道へ移す』と言われた。冗談じゃないと思って必死で交渉しましたよ」と藤田さんは振り返る。 粘り強い交渉の結果、移転は免れた。しかし、30平方メートル近くあった敷地は、約半分になってしまったという。
2と7のつく日の縁日は、交通量の増加に伴い廃止されて久しいが、代わって毎年7月に、通りを通行止めにして「こどもえん日」が開かれている。金魚すくいや、焼きそばの屋台などを地元町会が催し、往時のにぎわいをしのばせている。「街に子供の姿があるというのは、やっぱりいいものです」。親子2代にわたって街の移り変わりを見つめてきた「出世不動通り商店会」の柴田昭司会長(73)が言う。「お不動さん」を中心にした地域のきずなは、今も変わらない。
一橋徳川家の表鬼門除けとして祭られた、智証大師作の不動尊が祭られている。
http://www.yomiuri.co.jp/tabi/tokyo/20020514sf01.htm 参照 |
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共立女子学園

明治19年3月「共立女子職業学校創立」
共立女子職業学校として、本郷東竹町の渡辺辰五郎裁縫私塾の一隅からスタート。創立に携わったのは、宮川保全、鳩山春子、永井久一郎(永井荷風の父)、服部一三、手島精一など34名。「共立」の校名は、この人々によって共同設立されたことに由来する。
明治20年2月「神田校地へ移転」共立女子職業学校は、教育規模の拡大、充実に相応した校地を求めて、現在の神田一ツ橋に移転した。
明治44年、中等学校教員の資格を与える高等師範科を設置。同師範科は大正14年の専門学校令により、専門学部へと昇格。昭和3年、共立女子専門学校として、女子教育の先駆者としての学園を築いた。
以上が学校史の抜粋。 店から歩いて3〜4分で、一ツ橋の一角を占める共立女子学園は、中学から大学院まである。この1号館は昭和11年に完成された歴史ある建物。高校が利用しています。一番新しい建物は、共立講堂の隣に立ち、平成16年4月から、高層ビルの新校舎(本館)で授業が行われています。
前に掲載した共立講堂の写真の後ろに立っているのが新校舎。 |
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九段会館

営団地下鉄、九段下駅を出て交番の隣。古めかしい、重厚な建物。
元 軍人会館らしく、玄関は赤ジュータンの階段を上がって入る。
江戸時代には旗本の屋敷があった、明地等の移り変わり経て 明治には靖国神 社付属地となり、昭和9年に現在の建物が建設された。九段会館と牛ヶ淵公園 のある一帯は「蕃書調所跡」としてしられている。 九段会館は軍人会館と呼んだ方が知る人が多いようである。
昭和天皇の即位を記念して1934年に建設された。戦後、 旧日本軍の軍人・軍属の「英霊」をたたえる遺族の団体である日本遺族会の本部となる。
旧軍人会館は、近衛歩兵第一・第二聯隊兵営から牛ヶ淵を挟んだ東側にあり、現在は「九段会館」と名を変えて往時の姿をとどめている。 ここは、昭和11年の「2.26事件」に際して、戒厳司令部が置かれたことで有名である。日本遺族会が経営、地主は国である。今は結婚式場やコンサートホール・屋上ではビヤホールなどに使われている。半地下にレストラン、居酒屋があり仕事の終わったサラリーマン達で賑わっている
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学士会館

グレローから歩いて5〜6分。2ブロック 学士会館、ここは東京大学 発祥の地です。神田錦町、地下鉄神保町駅から竹橋に向かって2分、左手に見えます。昭和3年に、鉄骨鉄筋コンクリート造4階建。今は喫茶室、レストラン、結婚式、会議、宿泊で使われています。中のレストランが昔風の重厚な作りで、落ち着く。タイムスリップした感じで、時間が止まったような静寂館があります。今は少なくなった 大正時代の雰囲気が残っています。
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