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| 日本武道館 弥生廟をおりて、左側に日本武道館がある。田安門から左に大きく曲がっている右側に駐車場、左側が武道館。 毎週、何かの会がひらかれている。とくに、卒業、入学式などに多く使われ、桜の季節には混雑します。建設は、1963年(昭和38年)10月に着工、工事期間わずか12ヵ月、1964年(昭和39年)9月、日本武道の大殿堂が完成しました。 ![]() 第18回オリンピック東京大会では、初めて正式競技に採用された日本の国技・柔道の競技会場として、我が国伝統の武道である剣道、弓道、相撲がデモンストレーションとして各国の人々の前で披露されました。以来、日本武道館は、設立の趣旨に沿い、種々の武道振興普及事業を行っています。青少年の心身錬磨の大道場として各種武道大会に使用。 看板の文字は、正力松太郎。. 武道館の、屋根の上に乗っている擬宝珠(ギボシ)が大きい。それで、調べてみたら、載ってました。 建物の大きさ 、 八角形の直径で60m、高さ 地上より42m、よくコンサートをしていますが、席数は15,031席。 桜の季節には、桜と武道館がよく似合う。 |
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弥生慰霊堂 田安門を入り、直ぐ石垣に沿って左折。結構見落としてしまう細い道。石垣沿いに緩い階段を上がる。田安門の枡形の石垣の上です。表には何の説明も無いので入りにくい。知らないと見落としてしまう。弥生慰霊堂(やよい いれいどう)は警視庁及び東京消防庁の殉職者を祀る。 弥生慰霊堂社殿は神社建築に近いもので拝殿と本殿からなり、本殿は神明造の屋根であるが千木・堅魚木がない。古くはあったのかもしれない。現在でも鞭懸(神明造の破風にある8本の棒)が残っている。拝殿は吹き抜けで土間となっている。参道入口には狛犬のようなものがあり、また本殿正面の脇には燈籠があるなど、全体的に神社だった頃の面影を漂わせている。境内には「御野立所記念碑」がある。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 帰るときに思った。警官や消防士の殉職者が何でこんなに判らない所に祀られているんだろうか? 看板ぐらい出せばいいのに。 参考:http://blogs.dion.ne.jp/yohaku/archives/2548462.html 地図にない場所:弥生廟 |
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北の丸公園![]() 旧江戸城北の丸は、北半分が江戸時代中期から御三卿の田安家、清水家の屋敷であり、南半分は植溜用地として使われてきました。明治維新後、近衛師団の兵営となり、近衛師団司令部が置かれました。 [動植物園・公園] もともとは旧近衛[このえ]師団などの建物が立っていたが森林公園として整備され、1969年(昭和44)に一般に開放された。周辺部にはクスノキやタブノキなどの常緑樹、中央部には芝生と池、その周辺にケヤキやクヌギなどの落葉樹や花木が植えられている。公園横には、東京国立近代美術館が、園内には科学技術館、日本武道館などもある。 |
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| 田安門 この門が創られた年代は不明であるが,高麗門の扉釣具に寛永13年と刻まれている。ある説によると,寛永5年(1628)に江戸に大地震があり,その後,各所の大修理が行われ,翌6年には松平伊予守忠昌に田安門普請の命が出されている。銘にある寛永13年は,江戸城総曲輪の大工事を行った年で,田安門もこの時修復したと考えられる。 田安門の辺りは,古くは「田安口」または「飯田口」ともいい,上州方面への道が通じていたという。太田道灌時代,江戸城の合戦と言われているのはこの辺りであったらしい。門内は田安台といって,はじめ百姓地で田安大明神 があった。江戸城経営後は北丸と証し,代官屋敷や大奥に仕えた女の隠遁所となった。千姫,春日局や英勝院の屋敷などもここにあった。享保15年(1730)八代将軍吉宗の第二子宗武は,ここに一家を創立して田安家を興した。また宗武の子松平定信(白河楽翁)はこの地で生まれている。現在田安門がある北の丸公園には,田安門から南北をつらぬくように西側一帯を田安家,東側一帯を清水家が所有していた。維新後,明治7年(1874)から近衛聯隊の兵営が置かれたが,第二次世界大戦後は,警察学校校舎,学徒援護会などに使用されていた。その後,東京オリンピックを機に森林公園となり日本武道館などが設けられ,現在に至っている。 |
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