皇居周辺
               絵画は 下田祐治氏が描く「神田百景」懐かしい神田 再発見  
                    制作 発行(有)あとりえ・えーす
より
グレロー便り
 皇居外苑から東京駅を望む 馬場先門を調べたが、あまり出ていない。日比谷濠と馬場先濠の中にあった橋。今の皇居外苑と丸の内を結んでいたが、今は名前だけが交差点に残る。元の造りとしては和田蔵門と同じだろう。古地図を見ると、名前の由来のように、内側に馬場があった。皇居正門より外苑を望む

馬場先交差点の反対側、明治安田生命辺りに、『定火消役屋敷』があったらしい。幕府直属の消防隊。浮世絵師歌川広重は、火消同心の子として生まれた。

 又、和田蔵門に近い内側に、松平肥後守、会津藩上屋敷。幕末の藩主、松平容保は会津若松城に拠り、討幕軍と対戦。敗れて斗南(北奥の旧陸奥南部藩領。三万石。新しい藩名は「斗南」と命名され、旧藩士と家族1万7千人余りが移住した。)へ移住させられた。
   和田蔵門跡  和田倉橋
   巽櫓の反対側にあり、和田蔵門交差点。そのまま行くと、東京駅。そこを左折すると50メートルぐらいのところに和田倉橋。この濠は和田倉濠。橋の後ろのビルはパレスホテル。

ここには、かって江戸城の守衛のために築かれた内郭門の一つ和田倉門がありました。橋を渡った皇居外苑側には枡形石垣があり、橋と一体で門を構成していました。

 慶長7年(1602年)頃といわれる「別本慶長江戸図」には、橋が描かれ、「蔵の御門と云、士衆通行の橋」と記述があります。また、「御符内備考」には、橋の由来が「慶長十二年の頃の図に、ここに和田倉と称せし大なる御蔵二棟を図せり。是御門の名の起る処なり(後略)」と記され、蔵があったため門が名付けられたとしています。和田蔵門交差点 正面東京駅

なお、徳川家康が江戸に入った時、この辺は和田倉という村落で有ったと言う説もあります。和田蔵門には、鉄砲十挺・弓五張・長柄槍十筋・持筒二挺・持弓一組が常備されていました。警備には、諸大名で二万石から三万石の者が担当していました。この橋は、昔そのままに復興されたものですが、江戸城の門と橋を偲ぶのにふさわしい景観をみせています。
平成16年12月 千代田区教育委員会  
 この橋を渡り中に入ると和田倉噴水公園。    

    北桔橋門 「きたはねばしもん」

北桔橋門 表から
 江戸時代、門の内側には天守閣があり、極めて重要な門でした。本丸へ北から入る門であり,代官町通りを隔てて北の丸に面している。江戸時代には門内を左折して渡櫓門があり,桝形形式の城門を構成していた。

桔橋というのは有事の際,橋をはねあげて交通を遮断できる仕掛けになっていたものである。現在も高麗門を見上げると、上部にはねあげるために取り付けた滑車と掛け金具があります。北桔橋門 内側から北の丸側を見る

門の中に「天守台」の石垣が見えます。 北詰橋は城中の門であり、南詰橋(みなみはねはし)と並び「跳ね橋」である。

 北詰橋門は江戸城本丸・二の丸に通じる玉川上水の入口でした、近代美術館工芸館近くの土手上から,ひとたび下った水道管内の上水は,逆サイフォンの原理で北詰橋門内本丸元枡へのぼってきていたそうです。

現在は大手門、平川門とともに、皇居東御苑の出入口となっています。
            乾門

乾 門 今までは、城から見て濠回りにありましたが、ここは明治になって立てられた門だそうです。確かに古地図には載っていません。道を挟んで、前は国立工芸館(元、近衛師団の本部)
京風の門である。この門を入ると,乾濠,西桔橋,蓮池濠,道灌濠などの横を通り宮内庁に達するが,一般の人はこの門から中へは入れない。
宮内庁へ御用がある一般の自動車の出入りが見受けられます 。
 但し、正月の参賀の時の帰り道には使われていますので、一般の人は、この時しか通れません。柵があるので、これより近ずけません。


     半蔵門

  内堀最後の門。半蔵門 1620年に建築され、麹町御門とも呼ばれています。 半蔵門は,伊賀忍者で有名な服部半蔵の組屋敷があったのでこの名がついたといわれている。
  古くは「かふじまち口」といって国府(府中)へ行く道の出発点であったという説がある。
  また寛永江戸図には麹町口,延宝江戸図には麹町御門と記されている。将軍が江戸城を脱出しなければならない,急な事態が発生した場合,甲州街道から甲府へと脱出する緊急事態用の門であったという。よってかつての甲州街道の起点は日本橋ではなく,この半蔵門であった。
 江戸時代から明治末までこの門を入って竹橋へ抜ける道があった。現在の通称代官山通りは明治41年(1908)から今の道がつくられている。山王祭の山車がこの門を通って,将軍の上覧に供したものでもある。門内は吹上御殿であるが,江戸城築城以前は市民の遊覧の地であった。築城後は江戸城の控地となった。今は宮中三殿,御府,生物学御研究所などがある。半蔵門は昭和20年5月25日撤廃,その後現在の規模に再建された。
 田安門       田安門                         
  グレローから歩いて、5,6分。散歩によく来る。北の丸には江戸時代には清水家、田安家があり、その敷地が公園になっている。明治期には近衛連隊があったそうですが、昭和30年代後半に旧近衛連隊等の多くの建物を撒去し、森林公園として造成されたものです。 田安内門また、科学技術館や国立公文書館のある所は、御鉄砲倉があったと。そう言えば、その地には現在機動隊も駐屯。

  御三卿は、他に一橋家(今の丸紅の一角に碑がある)。元来は徳川氏の一族で、官は諸省の卿に任じられるのでこのように称せられ、10万石を供せられました。この御三家も次第に疎遠になると共に、中期にはその弊害を補う為に、将軍家の庶子、田安家は8代将軍吉宗の第2子宗武、一橋家は第4子宗尹、清水家は8代将軍家重の第2子重好を、祖としました。

  田安門は江戸城の北部に位置し、建立以前のこの付近は田安台と言われた田園地帯でした。桝形門でその創立年代は 明らかでないが、慶長12年(1607)には既に存在していて、現在の門は寛永13年(1636)に再建され、現存する門の中では 最も古いものです。門を出て右手に牛が淵を見ながら九段坂を下ると。地下鉄 九段下 駅
   清水門
  清水門                  竹橋を見ながら、次の清水門へ。桜が咲く時期には、かなりの人が来ます。グレローから一番近い門で、3〜4分くらい。清水門 上から清水門に入る左側が清水豪。右側が牛が淵。
昔 清水寺というお寺があったといいます。清水門の第一の門(高麗門)を抜けると鉤型に第ニの門(渡櫓門)典型的な枡形門。各門を回っていますが、唯一、上から見える門です。この門からは、攻めずらいでしょう。こう上から見られては。入った後に、長い階段状の登りがある。清水の殿様は、ここをやはり、歩いたのかな?それとも籠?
 
 門内には、九代将軍家重の子重好に、ここへ一家を創立させて清水家と称させました。北の丸の東門で万治元年(1658)に再建されたものです。
 寛永元年(1624)助役大名浅野長晟建立の。破風の中は銅板が張られ、青海波(せいかいは)が刻まれている。これは、かつての江戸城天守と同じ作りです。鯱には葵の門がある。雁木坂(石の階段)は他の門には無く江戸時代の形を残しています。石垣、白壁、そして、単純な大きな瓦屋根、というこれら城門の構成は、シンプルにして雄大。お濠や桜によく似合います。昭和36年、国の重要文化財に指定されました。
   
    竹橋
                                                    竹橋 前のビルは毎日新聞社              竹橋(たけばし)は、グレローから歩いて7〜8分。清水濠の上に架り、北の丸公園にある近代美術館と、毎日新聞社ビルを結んでいる。
地下鉄東京メトロ東西線の竹橋駅が橋東詰にある。

 竹橋は、徳川氏の関東入国以前にすでに存在していた。 竹橋の名は、竹を編んで渡した橋だったからとも後北条家の家臣、在竹四郎が近在に居住しており「在竹橋」と呼んだのが変じたものとも言われる。 「別本慶長江戸図」には『御内方通行橋』と記してあり、主として大奥への通路に用いられたようである。

1878年(明治11年)8月23日、橋西詰にあった近衛砲兵大隊竹橋部隊の兵卒、三添卯之助、小島萬助等約260名が西南戦争の行賞について不平を懐き、週番士官深沢巳吉大尉らを殺害、行賞削減を企図したと言われた大蔵卿・大隈重信公邸に砲撃を加え、周辺住居数軒に放火、さらに天皇のいる赤坂仮皇居に進軍し集まる参議を捕らえようとしたが、近衛歩兵隊、鎮台兵により鎮定されるという一大騒乱があった。 大手濠から毎日新聞社2を望む

これが「竹橋騒動」「竹橋事件」あるいは「竹橋の暴動」などと言われるものである。旗を用いて合図を送るなどかなり計画的なものだったらしい。騒乱に加わった者のうち三添ら53名は同年10月15日銃殺刑に処せられている。のちに軍隊の思想統一を図る軍人勅諭発案のきっかけをなした事件である。第二次大戦後まで真相が明らかになることはなかった。

内務省の判任官西村織兵衛は事件の起こる直前の夕方に神田橋で叛乱の計画を謀議を知り、内務省に立ち戻り書記官に急を知らせた。この通報により蹶起計画は事前に漏れていたのだが、阻止することはできなかった。
岩倉具視書簡 大木喬任宛 明治11年8月23日「大木喬任関係文書」国会図書館
 資料請求番号S38-001 Category:日本の橋  

 平河門と平河橋  下田祐治氏  平川門
内堀通りの毎日新聞社前の信号を渡ると平河橋、平川門。ここをくぐると、東御苑。平河門はかっては大奥への通用門として奥女中達が出入りをしていたのでお局門ともいわれた。絵島生島事件では門限に間に合わなかったために死罪を命じられた。 (その後減刑され高遠藩お預けとなった) 名前の由来は、平河橋と平河門門の前に平川村があったことからこの名が'つく。
 江戸城の中核部(本の丸・二の丸・三の丸)は、一部を除いて皇居東御苑として一般に開放されている。 東御苑への通用門は、大手門・平河門・北詰門の3ヶ所。門内の入苑は入り口で「入苑札」をもらって入り、出る時に返す。4時半閉苑。都心とは患えない別世界の風景に会うことができます。
 

 和気清麻呂
(わきのきよまろ)和気清麻呂
              
 内堀通り、大手門と平河門の間に有る。丸紅本社の前。大手壕中ほど。平河門と大手門の間。グレローから歩いて12〜13分ぐらい。地下鉄東西線竹橋駅から1分。
 奈良末 平安初期の公卿。 皇位継承をねらう道鏡の野望を打ち破り天皇家の正統な皇位継承を存続させた存在として有名。道鏡の野望は退けられたが道鏡により左遷され 更に別部穢麻呂(きたなまろ)と  名前を変えられ大隈国へ配流された。
道鏡の後ろ盾となっていた称徳天皇が崩御すると 道鏡は勢力を失い 清麻呂は許され帰京し 桓武天皇の信任をうけ従三位に昇進した。 平安遷都を推進。 紀元二千六百年記念事業として昭和15年に銅像は完成された。
大手門
     大手門1  大手門2 現在は東御苑の入り口

大手門しゃちほこ 前の大手門に乗っていた 大手門内側 大手門内門

 大手門 城の正面を意味し、江戸時代の諸大名はこの門を通り城内に入りました。大手橋が架かり、御城入口御門橋とも呼ばれています。
 旧江戸城の正門で,慶長12年(1607)藤堂高虎によって1年3ヶ月ほどで完成した。元和6年(1620)の江戸城修復に際し,伊達政宗,相馬利胤の協力によって現在のような桝形形式の城門になったといわれている。大手門の警備は,鉄砲30,弓10,長柄20,持筒2,譜代10万石以上の大名がこれを勤めたという。三百諸侯が威儀を正して登城した門であり,三の丸,二の丸を経て本丸玄関前に至っている。

 大手門は明暦3年(1657)1月の江戸大火で類焼し,翌万治元年11月に再建された。その後,元禄16年(1607)11月と安政2年(1855)10月の江戸大地震で被害を受け,その度に修理されて明治に及んだ。明治以後も数度の修理があり,大正12年(1923)9月の関東大震災で大きな被害を受け,大正14年渡櫓を解体し,両側の石垣を築き直すなど大修理が行われた。昭和20年4月13日の戦災で渡櫓は全焼したので,昭和40年10月から42年3月に渡って復元工事を行い,高麗門および附属塀を修理し,桝形形式の大手門が再建された。
 
辰巳櫓

       下田祐治氏 51辰巳櫓
 桔梗門の右側角にあります。今残っている櫓はこの辰巳櫓と富士見櫓の二つです。
 江戸時代は桜田二重櫓と言われていた。白亜漆喰総塗込めで横に二条の線がある。出窓状の突き出しが石落としで、弓や鉄砲を撃つ狭間を持っています。 関東大震災で破損した後、解体復元された。

辰巳櫓(たつみやぐら)は巽櫓とも書きますが、正式には桜田二重櫓と呼びます。
 皇居前広場の内濠(うちぼり)(桔梗濠)から簡単に撮影ができるためか、映画やTVで江戸城って言えばここがよく映されます。電線、鉄塔が無いので、いいのでしょう。
 桔梗濠(ききょうぼり)はここの左手の桔梗門から右手奥の大手門までを言います。
櫓は、食料や武具の貯蔵所として使われていました。方角が、巽の方角すなわち東南なので、この名前になっています。
 桔梗門  桔梗門                                                                    
 坂下門の右側で、昔は橋だったようですが、今は道路になっています。皇居参拝者や勤労奉仕の人達が出入りする門です。
 桔梗門。門の両側には巽櫓と富士見櫓を有し、内桜田門とも呼ばれています。桔梗は、一説によると、江戸城を築いた太田道灌の家紋であるとされています。門の前には桔梗門橋が架かっています。

三の丸に入る南門で、江戸時代は内桜田門(うちさくらだもん)が正式名称で、桔梗門(ききょうもん)は通称でした。桔梗門の名称は、太田道灌(おおた・どうかん)の家紋で「太田桔梗」の屋根瓦がこの門に残っていたから、など諸説あるようです。

 蛤濠(はまぐりぼり)の左手には坂下門(さかしたもん)があります。桔梗濠の右手には辰巳櫓(たつみやぐら)があります。桔梗門を入ると左手に旧枢密院(すうみついん)があるとの事です.。
 
 坂下門
  坂下門
  正門の右側にある門。宮内庁の正面にあるために、皇居に出入りするのに一番使用されます。
 枡形城門でしたが、明治21年に第一門は撤去されて、これは移設された第二門です。 
 他の江戸城城門の第一門は、防御の為に左右に見附があって、門自体は小振りですが、現在の坂下門は第二門ですから大振りです。
 ここは西の丸の造営後,新たに立てられたと伝えられる。
 文久2年(1862)1月,老中安藤対馬守がこの門外で水戸浪士に襲撃を受けた。いわゆる「坂下門外の変」である。安藤対馬守は磐城平藩5万石の領主,寺社奉行,若年寄を経て万治元年老中となった。井伊大老没後,老中首座久世広周と組み,一ツ橋派諸侯の謹慎をとき,朝廷と幕府の間の調整融和のため公武合体政策をとり,将軍家茂に皇妹和宮の降嫁を強行し実現させた。このため尊皇攘夷派の憤激を買い,水戸浪士平山平介ら6人に襲撃を受け負傷,失脚した。
楠正成 銅像楠正成
 グレローから歩くと20分ぐらい。地下鉄で一駅。
天気がいいと銅像は空が明るすぎて、顔が見えません。 ここから桜田門まで、直ぐ側。

 皇居外苑に楠木正成(くすのきまさしげ)の騎馬銅像がそびえています。明治23年(1890年)の別子銅山200年祭を記念して、住友が献納したものです。別子の銅を用い、原型木彫の製作主任に高村光雲、鋳造には岡崎雪聲が当たりました。正成の体格容貌をどうするか、馬はどの産地の特長をもたせるか、などの考証に苦労しました。さらに、当時の日本にはこれほど大きく、いろいろな付属品のある銅像を鋳造する技術は無く、アメリカまで出張して大作を見物し「分解鋳造」の方法を悟ったなどのエピソードもあり、完成建立は明治33年(1900年)でした。
参考資料 楠正成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E6%88%90
 
 皇居 正門 二重橋

二重橋1 二重橋の前の交番  二重橋渡った所の正門  

正門から見える二重橋  
 桜田門の右側にあり、観光客も多く、二重橋を背景に記念写真屋が、待ち構えている。二重橋の前まで行けるが、正門には、近づけない。
昔、木橋の時は、堀が深く橋桁を二重に組んでいたのが二重橋という名前の由来のようです。又別の説で、奥の正門鉄橋と二つの橋で二重橋と通称しているようです。手前の堀は二重橋堀、橋のの向こうの堀は上道灌堀。
 これらの橋は、通常は使用されず、新年の一般参賀や外国賓客の皇居訪問等宮中の公式行事の際に利用されます。外国の大使などの任命式には、ここを使うのかな? もう一つの橋の写真を撮り忘れました。
 
 桜田門
桜田門 外門 背中側に警視庁
桜田門 内側70桜田門








桜田門 内門 背中側が皇居外苑 古地図を見ると、桜田門と井伊直弼の屋敷の距離は、500メートルぐらい。ここで襲うとなると、かなり用意周到な準備をした事だろう。一人の人を暗殺して、政治が急展開していく珍しい事件だと思う。

桜田門外の変さくらだもんがいのへん)は、江戸時代後期の1860年3月24日(安政7年3月3日、同年3月18日に万延に改元したことから、万延元年3月3日とも)に水戸藩の浪士が大老井伊直弼の行列を江戸城桜田門で襲い暗殺した事件である。もっと細かく知りたい人は下記を参考に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89

 牛が淵(江戸城の濠の一つ)
  
先週、TVのニュースで外来種の魚ブラックバスやジルギス等を取る為に、武道館下の濠(牛が淵。田安門と清水門の間)の水抜きが行われました。早速 見に行きましたが、、報道陣の人が多く、係官は、少なく。数人が豪の中で魚を取っていました。集まった報道陣
 写真では判り難いですが、以外に掘りは浅く1メートルぐらいしかなく底はヘドロが多いみたいです。
  ゴミの多さに驚きました。しかし、よくこのような所に、自転車や、電子レンジ等を捨てますね。環境庁は、魚を捕獲する予定が、ゴミ掃除からやら無ければならなくなったようです。濠には、在来種も多く弱い為に、外来種に食べられてしまうそうで、其の為の捕獲作戦とか。
          


 北の丸公園
    田安門                                 
雁木坂の階段を上がり清水門を見下ろしながら北の丸公園に入る。 北の丸には江戸時代には清水家、田安家があり、その敷地が公園になっている。若葉が綺麗な季節ですね。花が咲き誇り、木々は透き通る萌黄色。みんな、春を楽しみ、のんびりと散歩しています。母のスピードに合わせ、のんびりと草花を観ながら写真を取りました。武道館では、少年剣道大会が行われていました。武道館の前に、カフェテリアがあり、そこで休憩し田安門に向います。武道館側が清水家 反対の池が在る方は田安家 そして明治期には近衛連隊があったそうですが、昭和30年代後半に旧近衛連隊等の多くの建物を撒去し、森林公園として造成されたものです。  
   また、科学技術館や国立公文書館のある所は、御鉄砲倉があったと。そう言えば、その地には現在機動隊も駐屯、、、御三卿は、他に一橋家。元来は徳川氏の一族で、官は諸省の卿に任じられるのでこのように称せられ、10万石を供せられました。この御三家も次第に疎遠になると共に、中期にはその弊害を補う為に、将軍家の庶子、田安家は8代将軍吉宗の第2子宗武、一橋家は第4子宗尹、清水家は8代将軍家重の第2子重好を、祖としました。田安門は江戸城の北部に位置し、建立以前のこの付近は田安台と言われた田園地帯でした。桝形門でその創立年代は 明らかでないが、慶長12年(1607)には既に存在していて、現在の門は寛永13年(1636)に再建され、現存する門の中では 最も古いものです。門を出て右手に牛が淵を見ながら九段坂を下ると。地下鉄 九段下 駅
グレロー便り