皇居周辺2
絵画は 下田祐治氏が描く「神田百景」懐かしい神田 再発見  
                    制作 発行(有)あとりえ・えーす
より
グレロー便り
毎日新聞社
 皇居一周も、これが最後になりました。もう直ぐ終点です。和気清麻呂(わきのきよまろ)の銅像(皇居周辺に載せて有ります)の前からよく見える。下の写真は銅像の前の大手濠。右手前のビルが丸紅の本社。毎日新聞社の前に平河橋が見える。昔、30年前には上にリーダスダイジェストの看板がかかっていたはずです。そういえば、今でも有るのですかね。
毎日新聞社  毎日新聞の歴史を調べてみると、http://www.mainichi.co.jp/ 面白いことが判った。     
東京日日新聞(東京で最初の日刊紙、毎日新聞の前身)浅草で創刊
1875年(明8) ● 新聞の戸別配達実施。世界初

東京日日新聞・第4代社長 (1904〜06年在社) 加藤高明(のちに首相)
1876年(明9)2月20日 ● 大阪日報創刊

1888年(明21) ● 大阪毎日新聞と改題
大阪毎日新聞・第3代社長 (1898〜1900年在社) 原 敬(のちに首相)
1911年(明44) ● 大阪毎日新聞と東京日日新聞が合併。全国紙として第一歩を踏み出す
 人見 絹枝  (1926〜31年在社) 大阪本社運動課。  1928年、第9回アムステルダム オリンピックに出場。  女子 八百メートル走で銀メダルを獲得。  1931年、在職中に死去。
新渡戸稲造(1929〜33年在社)本社顧問。1933年にカナダで客死するまで英文毎日の監修に尽力。(農学博士・教育者)
井上 靖(1936〜51在社)文化部副部長、論説委員など1976年、文化勲章受賞(作家)
1943年(昭18) ● 大阪毎日新聞、東京日日新聞の題号を毎日新聞に統一
1966年(昭41) ● 東京本社、有楽町から竹橋の新社屋「パレスサイドビル」に移転

 
色々な歴史上の人物が毎日新聞と関わっていたんだ。
今回で皇居周辺シリーズは終わります。一週めは、皇居側を。二週目は皇居に接する建物、歴史を見てきましたが、色々な事件等がありました。
   涼しくなったら皇居一周を散歩してみませんか?。
   気象庁
気象庁 東京消防庁の隣が気象庁。気象庁はいつ頃出来たのだろう?
調べてみました。
  明治政府は、明治4(1871)年7月工部省に測量司を置き、東京府下の三角測量を始めました。ジョイネルが気象観測の必要性を建議し、明治6年5月工部省測量司は気象台を設けることを決めて、ロンドン気象台長に気象器械のあっせんを依頼しました。シャーボーは「日本は地震が多いと聞いたが、測点が移動しては困る。日本で測量をするにはまず地震観測が必要だ。」と考え、イタリア製の地震計を気象器械とともに持参しました。
一橋徳川家屋敷跡
 明治8(1875)年5月これらの器械の据付けが完了しました。場所は、内務省地理寮構内(現在の東京都港区虎ノ門2−10ホテルオークラのあたり)です。気象業務を開始(気象庁の前身東京気象台)、地震観測と1日3回の気象観測を開始
1883年、 気象電報を開始し、東京気象台で初めて天気図を作成、毎日印刷配布を開始。
1924 年  初めて天気図が国民新聞に掲載
1953 年  テレビによる天気予報開始
1956 年  気象庁に昇格
 隣の消防庁から気象庁、丸紅本社までが江戸時代は、一ツ橋家の敷地だったようです。丸紅本社の所に史跡がある。それが右の写真。一橋徳川家屋敷跡。
   東京消防庁
東京消防庁 
パレスホテルを通りこすと、大手銀行の本店、三井物産の本社を見ながら来ると、ロビーにヘリコプターが置いてあるビルがある。これがHQの東京消防庁。

 東京消防庁は、昭和23年3月7日、自治体消防として発足。島しょ地域と多摩地域の一部(東久留米市、稲城市)を除く東京都のほぽ全域の消防防災業務を担っています。
 調べてみると、江戸時代までは消火ではなく、延焼を防ぐために火の回りの建物を壊し延焼をふせぐ。映画などでまとい持ちが屋根の上で纏(まとい)を振るシーンを見た事があるでしょう。あれは一つの象徴で、纏持ちの前の家を壊す事が火消しの仕事だそうです。
消防練習所跡地
右の写真は、千鳥が淵公園の中にあった「消防訓練所跡地」の碑

面白いHPを見つけました。広重の描く江戸火消の世界
http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=R204&ac2=R20401&Page=hpd_view
東京消防庁http://www.tfd.metro.tokyo.jp/index.html

パレスホテル
パレスホテル
和田倉噴水公園を出て右折すると、隣がパレスホテル。斜め前が大手門。前と横を公園に囲まれて最高の立地。
 歴史を調べてみると、以外に新しく昭和35年かららしい。その前は何だったのかは、判らずじまい。
パレスホテル 大手門から見る
 古地図を見ると、「腰掛」と「歩兵屯所があった。
前に見た錦絵では、年始挨拶で大手門から入る大名達が何組も待っている。自分よりも地位の高い大名が来ると、先に入ってしまう。なんとも階級制度は、努力しても阻まれてしまうものですね。

又藩主に随行できる人数が、決められていたので、その他の家臣は外でまたなければならなかった。その人達を相手に商売人が、集まっている。何度も禁止令が出たのですが、明治になるまで行われていたそうです。


和田倉橋・噴水公園
和田倉橋 
日比谷通りをこのまま行くと、御茶ノ水を通り、本郷通りに変わる。ここで和田倉橋を渡り和田倉噴水公園に入る。
 
  皇居外苑の端にある、この公園は、昭和36年(1961)天皇陛下(当時皇太子殿下明仁親王)のご成婚を記念して造られ、面積は15,000uあります。 その後皇太子殿下のご成婚記念で平成7年 (1995)6月噴水公園が再整備され、新しく水の流れ落ちる施設やモニュメントが造られました。和田倉噴水公園 噴水の水は、 お濠の水を濾過して循環使用しているとのことです。

左の写真は、公園から内堀通りを挟んで富士見櫓を望む。
右側(行幸通り側)に大きな噴水があり、左側にみずのモニュメントがある。この日はちょうど清掃日だったのか、係員が掃除中でした。 


行幸通り、銀行倶楽部
  東京駅正面 行幸通り 
東京會舘を通り馬場先門の交差点を渡る。馬場先濠を左に。右側は多くの大手企業のビルが並ぶ。1ブロックの交差点が和田蔵門。ここの道は特別で、右側に向かうと東京駅。左に向かうと「和田倉噴水公園」東京駅正面から皇居に向かう道は広く車は両サイドを走る。真ん中は行幸通りで天皇の通り道。

交差点を渡り和田倉濠の先に和田倉橋がある。その斜まえに銀行倶楽部。レンガ作りの建物。
東京銀行協会
明治32年、文明開化の波にのり近代日本資本主義の発展を目指して銀行倶楽部は創設されました。大正5年に倶楽部の拠点は現在の場所に移転され、赤れんが造りの洋館が竣工。銀行家をはじめ政治家、財界人が集った名サロンであり、館内には近代日本資本主義の生みの父、渋沢栄一のブロンズ像も置かれました。現在は、ここは東京銀行協会ビルディングの中にあって、銀行関係者の会員制倶楽部として使われています。



 東京會舘東京會舘創業当時の丸の内。馬場先門交差点近く
  
帝国劇場の前を通り細い道を渡ると、東京會舘。 写真は、創業当時の写真。帝劇、第一生命ビルも見える。

  大正11年《1922年)から85年間。皇居の緑を望む二重橋前に創業国公賓晩餐会などでいち早く本格フランス料理を提供し、ご宴会・ご婚礼・レストランにより、多くの方に「フランス料理の東京會舘」と愛され、親しまれてまいりました。東京會舘には変わりゆく丸の内を見守り続けて来た歴史がある。東京會舘旧館の外観写真。細部のディティールにまでこだわった壁面は美しく、風格ある佇い東京會舘は今に通じる。

(参考:東京會舘HPから。写真も)
  右の写真が現在の東京會舘。一度しか入ったことは無いが、中はかなり重厚な作りだった。特にシャンデリアは有名らしい。

         帝国劇場
    帝国劇場                   旧第一生命ビルの隣に帝国劇場が有る。東宝の直営演劇劇場。通称「帝劇」と呼ばれている。

 1911年(明治44年)3月1日、渋沢栄一、大倉喜八郎等の手により日本初の洋式劇場として開場された。横河民輔(横川グループ創始者、設計者)の設計によるルネサンス建築様式の劇場であった。当時の「今日は帝劇、明日は三越」という宣伝コピーは消費時代の幕開けを象徴する言葉として有名。イタリア人音楽家ローシーを招いてオペラを上演したほか、歌舞伎劇やシェイクスピア劇などが上演された。

  1923年の関東大震災では外郭を残して焼け落ちたが、横河民輔により改修され、翌1924年に再開した。1930年松竹の経営となり、間もなく洋画封切館に転向。SYチェーン(松竹洋画系)の基幹劇場となった。1939年、運営会社を東宝が合併し、翌1940年松竹の賃借期限が切れると共に東宝の手により元の演劇主体の興行形態に戻す。しかし1955年、舞台に巨大映画スクリーン・シネラマが設置され、再びシネラマ主体の洋画ロードショー用の映画館に転じたが、1964年から翌年にかけての『アラビアのロレンス』を最後に解体。谷口吉郎の設計で新たに現在の帝国劇場が1966年9月29日に落成した。1969年から1984年まで、『日本レコード大賞』発表会も行われた。現在、年間10作品程度上演している。また、大みそかに行なわれる、年末ジャンボ宝くじの抽せん会場としても知られている。
 大正時代の帝劇http://kyoto.cool.ne.jp/syasinsyuu/s45.htm
      旧第一生命ビル     旧第一生命ビル
 日比谷公園から左に日比谷濠。右手に重厚なビルが見える。これが、旧第一生命ビル。右側に丸の内警察署があり、その隣に重厚なビルがある。それが旧第一生命ビル。今はDNタワー21.通りは「日比谷通り。

1945(昭和20)年8月13日、トルーマン大統領により日本占領連合国軍最高司令官(ダグラス・マッカーサー)に任命され、30日、神奈川県厚木飛行場にバターン号から日本に降り立ったマッカーサー。

以後5年8カ月=約2000日のマッカーサーによる日本統治がはじまり、マッカーサーは事実上、占領下の日本の最高権力者(日本の絶対的支配者)として君臨し、戦後のGHQ (連合国軍最高司令官総指令部)が設置されたビルです。改築されて後ろに新館ビルが建っていますが旧第一生命ビル本館は別館として保存されています。ダグラス・マッカーサーはこのビルの6階で仕事をし、今も当時のままに残されているらしいです。

堀端天皇(第一生命ビルに陣取ったGHQの本部が皇居の内堀の側にあったことからこういわれた)とか「臍(へそ)天皇」 臍は朕より上にあるという意味。

      日比谷見附跡
日比谷見附跡 祝田橋の信号を渡ると、日比谷公園。
この石垣は、江戸城外郭門の一つ、日比谷御門の一部です。
城の外側から順に、高麗門(こまもん)枡形(ますかた)渡櫓(わたりやぐら)番所が石垣で囲まれていましたが、石垣の一部だけが、ここに残っています。当時、石垣の西側は濠となっていましたが、公園造成時の面影を偲び、心字池としました。(説明文より)日比谷公園 大噴水
 
江戸時代は大名の屋敷地であり、江戸城に登城するためには現在の日比谷交差点にかかる位置にあった日比谷御門の一部であり、見張り役人が警備する日比谷見附を通り抜けなければならなかった。日比谷見附は野面積み(のづらづみ)の石垣であり、江戸時代初期の築造である。石垣の周囲は濠になっていた。日比谷公圓大噴水 後ろが帝国ホテル

 幕末までは松平肥前守などの屋敷地でしたが、明治時代に陸軍練兵場となりました。明治36年、皇居の南に日本で最初に都市計画により誕生した洋風の近代的な都市公園で、霞ヶ関、銀座、新橋に接し、ビジネス街の緑のオアシスとして大いに利用され、平成15年に開園100年となりました。
 新橋側には、日比谷公会堂、大小音楽堂、日比谷図書館など大規模施設を含み、数々のイベントも年間を通じて開催されている。
 日比谷通りを挟んで、帝国ホテル、日生劇場などがある。
       最高検察庁   最高検察庁  
 法曹会館の前を進むと、大きなビルになる。これが最高検察庁。
(Public Prosecutors Office)は、検察官の検察事務と検察行政事務を行う官署である。日本においては、個別の庁(最高検察庁、高等検察庁など)でなく総体としての「検察庁」が「法務省の特別の機関」として設置されている。
 最高検察庁 - 最高裁判所に対応 。略称は最高検。検事総長を長とし、次長検事が補佐をする。検事総長、次長検事は認証官である。
 歴史
1947年(昭和22年):東京地検で特捜部の前身「隠匿退蔵物資事件捜査部」、通称「隠退蔵事件捜査部」が発足。
1957年(昭和32年):大阪地検特捜部が発足。
1996年(平成 8年):名古屋地検特捜部が発足。

最高検察庁の隣が公安調査庁。その隣が東京高等検察庁、一番端に弁護士会館が有る。この一角は司法関係、省庁で占めている。目の前が日比谷公園。祝田橋は、昔はなかった。

    法曹会館 法曹会館
 法務省旧館の隣(内堀り通り側)に小さな古そうな建物がある。近づくと、それなりに大きいが、回りが大きいために小さく感じる。

 団体の名称 財団法人 法曹会  
 設立 明治24年9月 法律研究の任意団体として発足し、明治41年12月 財団法人として認可される。
 目的 は、法律の研究及び司法事務の進歩発達を図ること。 主な事業 (1) 月刊法曹専門誌「法曹時報」を刊行し新法の解説・判例解説・外国法の紹介,各国司法事情の報道等を掲載し最高の法律専門誌としてわが国の法律文化の向上,発展に尽力しております。法曹会館 各種判例集・研究論文・執務資料等司法関係の印刷物を刊行しております。
(2) 会館運営(食堂・宴会・婚礼・その他)

竣工 1936年(昭和11年) 構造 鉄筋コンクリート造4階建て、地下1階 。
正面には、ステンドグラスがはめ込まれてあり、内部からの素敵な空間を想像させます。60年を越した建物なのに、手入れの良さを感じます。 目の前は、凱旋濠。一度、ここで食事をしてみたいです。
東京都千代田区霞が関1−1−1  参考 法曹会館ホームページ
  法務省旧本館
 旧本館  
警視庁の交差点。桜田門通りの信号を渡ると、旧本館が有る。重厚なレンガ作り。

「赤レンガ棟」として知られるドイツ、ネオバロック様式の建物である。ドイツ人ヘルマン・エンデとヴェルヘルム・ベックマンが設計し、明治28年に建設され旧司法省庁舎として使われていた。

 しかし、1923年(大正12年)の関東大震災では煉瓦壁が鉄材で補強されていたためほとんど被害を受けなかったが、1925年(昭和20年)の戦災で煉瓦壁と煉瓦床を残して消失した。
 そして昭和26年に改修されて法務省の建物として利用されてきたが中央合同庁舎6号館の整備に伴い、村松貞次郎、堀内正昭両氏の監修の下建設大臣官房官庁営繕部により1996年(平成6年)に外観が創建時の姿に復元された。同年12月27日重要文化財の指定を受けている。
41法務省旧本館 下村祐治 作
 ちなみにこの霞ヶ関1丁目1番1号は上杉米沢藩の屋敷があった場所である。桜田門よりの角に米沢藩上杉江戸藩邸跡の「竹に雀」の家紋の描かれたプレートとお雇い外国人「エンデ&ベックマン」のプレートがある。

 建物の右隣が東京高等裁判所。
      警視庁警視庁
 憲政会館の道を挟んで、御なじみの警視庁。
交差点を渡ると、右側に国会議事堂が見える。

警視庁(けいしちょう、MPD: Metropolitan Police Department)は、東京都を管轄する警察本部。 東京都公安委員会の管理の下、「都警察の本部として警視庁を置く(警察法47条1項抜粋)」こととされる。 警視総監がその事務を統括するが、給与支払権者は東京都知事である。 東京都内に101警察署を配置する。 所属警察官数は約42,000人、警察官1人当りの住民数は290人である。 現在は東京都に属する地方行政機関である。 他の府県警察が管区警察局を間に挟むのと異なり、広大な面積を有する北海道警察と同じく、警察庁の直接監督下にある。

 名称を他の道府県警察本部と同式の「東京都警察本部」にしないのは日本の首都である東京を管轄しており、皇居(宮城)や赤坂御用地、皇族の警衛、政府機関や世界各国の駐日大使館の警備、内閣総理大臣など閣僚の警護にも当たっているからである。パリ、ロンドンの首都警察呼称に倣ったといわれる。 本部の所在地から通称あるいは隠語として「桜田門」と呼ばれることもある。

いつ警視庁がここに置かれたのか調べたが、判らなかった。明治時代だろうけど、古地図によると、松平中務大輔の屋敷があった。

警視庁の後ろに海上保安庁、国土交通省、総務省が有る

 憲
政記念会館     
  憲政記念館左に桜田濠を見、ゆるい坂を下りながら、右手に憲政記念館が木々の間から見える。
横が国会議事堂。裏が国会図書館。日本の中枢である、官庁が前にある霞ヶ関。
憲政記念館は、昭和45年(1970年)にわが国が議会開設80年を迎えたのを記念して、議会制民主主義についての一般の認識を深めることを目的として設立され、昭和47年(1972年)3月に開館しました。
 この記念館のある高台は、室町時代に太田道灌が「わが庵は松原つづき海ちかくふじの高根を軒端にぞ見る」とよんだ松原の一角に連なっていた景勝の地で、江戸時代の初めには加藤清正が屋敷を建て、その後彦根藩の上屋敷となり、幕末には大老井伊直弼もここに住んでいましたが、明治になってからは参謀本部・陸軍省がおかれていました。
 昭和35年(1960年)には、憲政の功労者である尾崎行雄を記念して、尾崎記念会館が建設されましたが、その後これを吸収して現在の憲政記念館が完成しました。
憲政記念館は、国会の組織や運営などを資料や映像によってわかりやすく紹介するとともに、憲政の歴史や憲政功労者に関係のある資料を収集して常時展示する。

 
    最高裁判所
最高裁判所  国立劇場を出て三宅坂の交差点に向かうと、隣が最高裁判所。

最高裁判所の発足
 昭和21年11月3日,日本国憲法(国立公文書館所蔵)が公布され,翌昭和22年5月3日の施行と同時に,最高裁判所が発足しました。 
我が国では,明治23年に施行された明治憲法により,近代的な三権分立主義を基調とした裁判所の制度ができました。

しかし,明治憲法下における三権分立は,司法裁判所とは別に行政裁判所や軍法会議などの特別裁判所が設けられ,行政府の一員である司法大臣が司法行政権を掌握しているなど,必ずしも完全なものではありませんでした。最高裁判所

 日本国憲法においては,国民主権の下に,三権分立が名実ともに確立されるとともに,基本的人権の尊重が明示され,これらに伴って,民法,刑法,刑事訴訟法等の多くの法令が改正されました。

そして,裁判所は,行政府から完全に独立して司法行政権を含む司法権の主体となりました。また,行政裁三宅坂の交差点から最高裁を見る判所のような行政府の下にある特別裁判所の設置は禁止されました。さらに,裁判所は,すべての法令及び行政府の処分が憲法に適合するかしないかを決定する違憲審査権を有するものとされたのです。

最高裁の角の処。小さな公園に、三人の乙女の像が有り、史跡として「渡辺崋山誕生地」の看板が見える。寛政1793年、三宅備前守藩邸内に生まれ、大部分をここで過ごした。この三宅坂の交差点の名前は、三宅備前守藩邸跡から付いたようだ。

        国立劇場
国立劇場1  半蔵門を左手に見ながら、坂を下る。右手が桜田濠。のんびり歩いていくと、右側に、国立劇場が見える。我が国の伝統芸能の保存と振興を目的として1966年に開場。 住所 千代田区隼町4-1

日本の国立劇場(National Theatre of Japan)独立行政法人日本芸術文化振興会が運営する。主に日本の伝統芸能を上演。大劇場、小劇場、演芸場の3つで構成されている。
国立劇場2
国立劇場の建設において、重要視されたもののひとつが、外観のデザイン。竹中は、日本の古代建築に範を求め、奈良の正倉院などに見られる校倉造をモチーフに選びました。校倉造では構造材がそのまま意匠材にもなっていますが、ここでは、コンクリート造を選択。いにしえのイメージを現代の技術で巧みに表現しています。

       英国大使館                                             英国大使館千鳥が淵戦没者墓苑を出ると直ぐ、内堀通り。左に曲がると千鳥が淵公園と半蔵濠から半蔵門へ。
 この半蔵濠の奥が吹上御所。 千鳥が淵公園の道路を挟んで、英国大使館がある。

 英国は、1859年以降日本に外交団を常設しています。最初の公使館は、当時の江戸にある東禅寺に設けられており、寺院は品川駅近くに今も残っています。

 皇居前の一番町に位置する現在の敷地は、当時の公使、サー・ハリー・パークスが外交団の任務の大半が集中していた東京に横浜から移転することを主張した1872年以降使用されています。この敷地は、それ自体、明治政府の好意の印として提供されたもので、英国政府に永遠に賃借されたものです。

 元々、赤レンガで建てられていた大使館の建物は、1923年の関東大震災で完全に倒壊し、1929年に大使公邸、本館、その他の建物が完成。イギリス大使館 下田祐治

1952年4月、日本の講和条約をもって、漸く「英国大使館」という正式な名称を得ました。

 英国大使館は、敷地内、またその周囲に植えられている桜の木で有名です。1898年、当時の公使サー・アーネスト・サトウが、東京の人々への贈り物として、またサトウの日本への愛情の印として、初めて桜の木を植えました。現在では想像もつきませんが、当時は花見をしながら富士山や海の見事な眺めが大使館から一望できたといいます。
 
 桜の時期は、大使館と千鳥が淵から人が流れています。昨年は凄い人が花見に来ていました。歩道橋を渡るのに、15分以上待たされました。

  千鳥ケ淵戦没者墓苑   千鳥が淵戦没者墓苑
 九段坂から千鳥が淵公園を歩き、そろそろ終わりそうになるころ、お濠と反対側にひっそりとある。いつ行っても人が少ない。靖国神社とは対照的である。

千鳥ケ淵戦没者墓苑の概要は以下の通り。

名称:千鳥ケ淵戦没者墓苑
性格:国が維持管理する「無名戦没者の墓」
管理:環境省千鳥ケ淵戦没者墓苑管理事務所
所在:東京都千代田区三番町2
面積:1.6ha
施設:六角堂、休憩所、御製の碑など
安置戦没者数:348,406柱(平成13年5月現在)

  千鳥ケ淵戦没者墓苑は、昭和34年(1959年)国によって建設され、戦没者のご遺骨を埋葬してある墓苑です。http://homepage2.nifty.com/boen/boen05.htm
 第二次大戦。海外地域の戦場において、多くの方々が戦没されました。戦後、ご遺骨が日本に持ち帰られましたが、ご遺族にお渡し出来なかったものを、この墓苑の納骨室に納めてあります。いわば「無名戦士の墓」とでもいうべきものです。現在、約35万柱のご遺骨がこの墓苑に納められております。
戦没者墓苑
  千鳥ヶ淵地域の変遷(薬草園→宮家邸→戦没者墓苑)
昭和20年頃まで賀陽宮邸の他、宮内大臣官邸等があったところである。昭和20年3月と5月の空襲によりこの地帯の建物は焼失して荒れ地となり、墓苑用地を探している頃、この土地は荒れ地のまま宮内庁が管理していた。この宮内庁管理の用地のうち約5000坪(約15000平米)が戦没者墓苑用地として使用されることとなった。

  この敷地の地域を更に遡って調べると、今から約400年昔のこと、徳川家康は江戸城を居城とするに当たり江戸城の本丸、西丸を中心として諸大名、直参の家臣等に屋敷を与えて江戸城の警護に備えた。千鳥ヶ淵から西方の四谷、市ヶ谷方面の外濠に至る範囲には、徳川家譜代直参の家臣を配置してこの地域は番町と呼ばれた。今も町名に一番町から六番町の名が残っている。今、戦没者墓苑は三番町内にあるが、この頃、現在の戦没者墓苑用地附近は旗本屋敷であったところである。

  江戸では、度々火災が発生しそれが延焼して大火となった。明暦の大火(1657年)では小石川伝通院近くで発生した火災が延焼して江戸の大半を焼き江戸城まで類焼した。この大火の後、幕府はその防火対策として、千鳥ヶ淵と新道一番丁(現在の靖国神社の大村益次郎像の位置から南に走る「内堀通り」)の間の東半分に幅約50メートル程の細長い防火地帯(火除明地)を設置した。また、この火除明地を遊ばせたままでは勿体ないことから、その南の部分を薬草園として薬草を栽培した。今の墓苑用地附近は、この頃は薬草園となった所である。参考文献:林泰助氏著「番町鍋割坂」


  なお、墓苑を管轄する千代田区は千鳥ケ淵を「墓地、埋葬等に関する法律」上の“墓”として認めておらず、靖国神社問題が過熱した以降、戦争責任者であるA級戦犯を合祀し続ける靖国神社に代わる新たな無宗教追悼施設の必要性を訴える声が増えた為、この拡充計画は千鳥ケ淵戦没者墓苑をアーリントン国立墓地のような無宗教追悼施設に生まれ変わらせる事が目的だと見られている。
   日本武道館
 武道館前九段坂下から市谷方向に向かうと、右側に靖国神社。左側には田安門があり、門をくぐると、日本武道館。
 
 建設は、1963年(昭和38年)10月に着工、工事期間わずか12ヵ月、1964年(昭和39年)9月、日本武道の大殿堂が完成しました。桜と武道館
 
 第18回オリンピック東京大会では、初めて正式競技に採用された日本の国技・柔道の競技会場として、我が国伝統の武道である剣道、弓道、相撲がデモンストレーションとして各国の人々の前で披露されました。以来、日本武道館は、設立の趣旨に沿い、種々の武道振興普及事業を行っています。青少年の心身錬磨の大道場として各種武道大会に使用。.
擬宝珠武道館の見える所から見ると、屋根の上にのっている擬宝珠(ギボシ)が大きい。
それで、調べてみたら、載ってました。
  建物の大きさ 、 八角形の直径で60m、高さ 地上より42m、よくコンサートをしていますが、席数は15,031席。
 桜の季節には、桜と武道館がよく似合う。  
 
グレロー便り